人々から忘れ去られていた古代の国道1号
710年、都が平城京に遷されると、外交路としての華やかさは失われてしまうが、その後も、竹内街道は重要な役割を果たしてきた。
中世末に自治都市・堺が繁栄をきわめた時代には交易路として賑わい、江戸時代にお伊勢参りが盛んになると、庶民が歩く信仰の道として親しまれた。街道沿いに茶店や旅籠が軒を連ね、『竹内』という街道名が一般に定着していったのもこの時代と言われる。
しかし、明治25年(1892年)、大阪・奈良間の鉄道が開通すると、街道の活気は一気に失われてしまう。竹内峠の改修工事が完了し、新道が国道166号に昇格したのは昭和も末の1985年のこと。古代の国道1号とでもいうべき由緒正しき道は、すっかり人々から忘れ去られていたのだ。
大阪南部と奈良盆地の間を行き来するクルマは、大半が西名阪道や南阪奈道に回ってしまうので、日中でも国道166号の交通量は少ない。ましてや旧道に入ってくるクルマなど皆無で、両側に土塀の続く狭い道には、時間の流れから置き去りにされてしまったような空気が漂っている。
「このあたりの人たちは、聖徳太子を『お太子さん』、推古天皇の御陵を『推古さん』なんて呼ぶんですよ」
この話を聞かせてくれたのは竹内街道歴史資料館の館長さんである。
親しみを込め、古代の偉人や遺跡を『さん』付けで呼ぶという土地柄も面白いと思うのだが、東京のような新興都市に住んでいる者にとっては、この大和地方の歴史の深さ、重みには驚かされるばかりである。
住宅地のなかにたたずむ寺院の三重塔がさりげなく日本最古のものだったり、農家の人たちが黙々と作業する段々畑の脇の盛り土が、歴史の教科書に登場する人物の墳墓だったり……。『日本版・王家の谷』とでもいうべき山の辺の道沿いの古墳群さえ、近所の人には緑豊かな格好の散歩コースになっている。日本最古の官道も、こんな人々や風土とともに気負うことなく生き続けてきたに違いない。