神武東征の古道と稜線で交差する峠越え
大台ヶ原をめざしてドライブウェイを走って行く人の大半は、登り道の途中という半端な場所に、なぜ伯母峰峠という地名があるのか不思議に思うに違いない。その理由を教えてくれたのが、南麓の上北村山西原地区に住む岩本速男さんだった。
岩本さんは西原地区の隣の集落、いまは無人となった天ヶ瀬地区に生まれ育ち、その故郷の歴史や伝説、人物伝などを『ふるさと天ヶ瀬』という一冊の本にまとめている。伯母峰峠の歴史を上北山村役場で尋ねてみたところ、担当者から資料を調べるより岩本さんの話を聞いた方が早いと教えられ、その足でご自宅にお邪魔することになったのである。
岩本さんによると東吉野街道の歴史は相当古いらしく、木材の切り出しや筏流しのため、峠を挟んで北山川と吉野川の上流域の人々は室町時代の頃から盛んに行き来していたという。そんな谷筋の山道の一本を拡幅して、荷車が行き来できるようにしたのが明治40年(1907年)のこと。そして、昭和10年(1935年)には稜線を越える峠道の下に伯母峯隧道が貫通し、ようやく自動車も行き来できるようになったのだ。
「私が初めてクルマに乗ったのは10歳の頃。おそらくT型フォードだと思うのですが、子どもにとってはステップの位置が高くて、乗り降りに苦労したことを今でも覚えていますよ(岩本さん談)」
注意して走っていないと見落としてしまうのだが、大台口隧道の南側出口からは一般の道路地図には載っていない林道のような道が新伯母峯トンネルの南側に向かって一本延びている。この道と県道40号の狭隘区間がトンネル開通前の旧国道なのである。
厳密にいうと、大台口隧道は昭和36年(1961年)に開業する大台ヶ原ドライブウェイ建設のため、その2年前に開かれたトンネル。岩本さんがT型フォードでくぐり抜けた隧道は、分岐から数百mほど上北山村側に下ったところに、なかば土に埋もれながらもその姿をとどめている。そして、明治時代に切り拓かれた伯母峰峠は、この伯母峯隧道と大台口隧道の中間あたりの稜線の鞍部を越えていたらしい。
このほか、岩本さんには伯母峰峠にまつわるいろいろな話を聞かせていただいたのだが、そのなかでも特に面白かったのは、神武東征にまつわる伝説である。
『日本書紀』によると、熊野の海岸に上陸した神武天皇の軍勢は、地元民の反撃を退けながら、いったんは大台ヶ原の山上に集結。そこからは伯母ヶ峯や吉野川の源流域を抜けて大和盆地をめざしたというのである。「どうせ神話だろ」といわれてしまえば身も蓋もないのだが……、現在の大台ヶ原ドライブウェイはこの神武東征の道にぴたりと合致する。
神話にも登場する稜線の古道と中世からの谷筋の峠道が交わるところ、それが伯母峰峠なのである。