様々な断片から自動車史の広大な世界を菅見するこのコーナー。今回はフォードGT40とフェラーリによる頂上決戦のかたわらで、GTクラスにも君臨していたフェラーリ250GTOを打ち破るために、キャロル・シェルビーがピート・ブロックに指令して生まれたデイトナ・クーペについて語りたい。
フォード製V8エンジンが搭載されたシェルビー・コブラが誕生
キャロル・シェルビーはイギリスのジョン・ワイヤーから才能を見初められ、アストンマーティンのワークス・ドライバーに抜擢され1959年のル・マン24時間にて優勝した。アメリカ生まれのアメリカ人による最初のル・マン制覇だ。しかし翌年、このテキサス生まれのタフガイには心臓の病が見つかり、レーサーという職業を断念せざるを得なかった。
そこで1961年に、シェルビーはカリフォルニアにドライビング・スクールを開設する。ピート・ブロックを講師として雇っているが、彼こそはシェルビーの最初の社員だった。シェルビーは同時にアメリカ製スポーツカーのプランも練っており、フォードから新開発のスモール・ブロックのV8エンジンの提供を受ける。車体は、シェルビーがソルト・レイクにおいてヒーリーのスピード記録計画の一員だったこともあり、ビッグ・ヒーリーをベースにすることを考えた。しかし、そのシャシーと足まわりはすでに時代遅れのものであったため英国のACにコンタクトを取った。ジョン・トジェイロが設計したレーシングカーをベースとするACエースは、ちょうどブリストルに替わるエンジンを模索中だったため、ACのオーナーであるハーロックはシェルビーと握手を交わしたのだった。
1962年1月、イングランドのACの工場でフォード製V8エンジンが搭載されたACはCSX0001(Carrol Shelby Experimental No.1)と呼ばれ、未塗装のアルミ・ボディのままシェルビーの元に送られた。シェルビーは、このクルマに何か新しい名前を付けようと悩んだが、夢のなかで『コブラ』という名前を思いついたのだそうだ。かくして4月のニューヨーク・オートショーでシェルビー・コブラはデビューした。デビューレースは同年10月にリバーサイド・スピードウェイで開催された3時間レースであった。より大排気量のコルベットに対し、コブラはトップを走っていたがリタイアに終わっている。次は12月のナッソー・スピードウィークであり、このレースではフェラーリ250GTOが上位を独占し、コブラはまたもリタイアに終わっている。
デイトナ・コブラこそがエンツォに脅威を感じさせた
ベニス・ビーチにあったスカラブのワークショップを受け継いだシェルビーの工場ではレーシング・コブラの開発に拍車がかかった。とはいえ、1963年のデイトナ3時間レースで4位、セブリング12時間レースでは11位と振るわなかったため、ル・マンにはシェルビーとしてではなく、ACとプライベーターの個人名で、空力を考慮してファーストバックのハードトップを装着したコブラを2台出走させて様子を見た。この年はフェラーリ250Pが1位と3位、GTクラスの250GTOが総合2位、4位、5位、6位と上位を占めたが、コブラはそれに次ぐ7位を得た。
9月にはブリッジハンプトン500kmレースでシェルビー・コブラは会心の優勝を遂げた。ダン・ガーニーが1位、ケン・マイルズが2位にはいり、ジャガーやコルベット、そしてフェラーリ250GTOを抑えての勝利だった。
この年の終わりまでにACコブラの生産は260台を超え、とっくにFIAのGTの認可を得ていたが、ル・マンに照準を当てたエアロダイナミックなクーペの開発を進めていた。FIAのレギュレーションに合致した範囲内であれば、コブラのバリエーションのひとつとして認められるからだ。ピート・ブロックはフェラーリ250GTO打倒のためによりスリークなボディをデザインした。
そして、1964年のデイトナ・コンチネンタル2000kmレースで、この新しいクーペはデビューした。優勝は新型のフェラーリ250GTO’64で、2位の250GTO、3位の250GTO/LWBに続いてガーニー/ジョンソンのコブラは4位。新しいコブラ・クーペはリタイアだったが、デビューレースを記念して『デイトナ・コブラ』と呼ばれるようになった。続くセブリング12時間レースにおいては1-3位を占めたフェラーリ275Pや330Pに続いて、デイトナ・コブラが4位に入り、5位、6位、8位もコブラで、フェラーリ250GTO’64は7位だった。その後のレースではフェラーリに勝てなかったが、ル・マン24時間では、フェラーリ275P、330P、330Pが表彰台を独占する中、4位にダン・ガーニーとボブ・ボンデュラントのデイトナ・コブラが入り、GTクラスの優勝を獲得したのである。なおこのレースでのフェラーリ250GTO’64の戦績は、5位、6位、9位だった。この年はフォードGT40がル・マンに初出場したが、リタイアに終わった。エンツォにとってはGTOがコブラに負けたことが何よりもショックだったに違いない。
翌1965年はコブラがFIA選手権を席巻した。プロトタイプではフェラーリのPシリーズやLMが勝利を重ねたが、GTクラスではコブラ7勝のうちデイトナ・コブラは実に5勝をあげ、初のワールド・チャンピオンを獲得したのだ。デイトナ・コブラこそフェラーリ250GTOを打ち負かし、エンツォに脅威を感じさせた存在だった。
- 1
- 2