1963年 ジョージ・トテフ、amtを去る
ジョーハンが一世一代の大仕事であるクライスラー・ターバインに苦心するのと頃合いを同じくして、amtは年次モデル=アニュアルキットのあり方について人知れず模索を続けていた。
【画像56枚】複雑さを増していくamt製キットなど、1963年の様子を見る!
amtはアメリカンカープラモのオリジネーターの強みを存分に活かし、これまでキットの内容拡充を図ってきたわけだが、そもそもこのアニュアルキット・ビジネスのはじまりにはプロモーショナルモデルの金型コストの償却に最大の目的があったことは本連載第1回にてすでに述べたとおりだ。さしたる手間なく金型から外した部品をそのまま売る、それも安く、大量に。
これは一見たいへんな成功を収めたに見えたが、年を追ってキットの内容を拡充させるほどにコストはかさんでいき、加えてビジネス開始当初からナンバーワンの人気だったカスタマイジングの愉しみをより充実させるためにamtが次々にコンサルト契約をした実車カスタムビルダーへの報酬も馬鹿にならず、キットひとつ当たり1ドル49セントという当初から変わらない価格設定はいよいよamtの枷となっていた。amtが喫緊に果たすべきことはふたつ。シンプルにいえばそれは価格を上げることとコストを下げることだった。
amtはまず、それまで実験的であったスタイラインのキットを通常のアニュアルキットに統合した。スタイラインの「より手の込んだカスタマイズ」を「アドバンスド・カスタム」と再命名し、いくつかのアニュアルタイトルに3イン1の選択肢のひとつとして組み込んで、価格に強気の2ドルを設定した。また同じく2ドルの価格設定がなされたキットがこれとは別にあり、それがフォードF-100とシボレー・スタイルサイド、ふたつのコンパクトなピックアップだった。
以前からトレーラーを付属させて2ドルの値をつけられていた両アイテムだったが、悪いことにこの年次の「おまけ」は前年に5〜6個のキットを購入できた者にしか手に入らなかったはずのトライアンフ・モーターサイクルとゴーカートそのものであった(連載第13回参照)。
amt自身が前年にさんざん煽ったスペシャル・フィーチャーが、何食わぬ顔で今年はバンドルド・クラップ(かさ増しのための不要なおまけ)にそのまま使われるという「大人の事情」に、小遣いをはたいたソーダ・ファウンテンでヒマシ油を飲まされたような顔をする少年も多かった。
簡易キットの発売、箱絵の個別化など、様々な動き
一方でamtは、金型費用の償却という当初の目的により忠実な、「組立式のプロモーショナルモデル」とでもいうべき簡易シリーズを展開した。ノー・グルー・リクワイヤード・フォー・アセンブリー(組立に接着剤は不要)と箱天面にキット最大の特長が大きく書かれ、キットを組み立てる少年の姿が添えられた4タイトルがそれだ。
キットはひとつ1ドルで、エンジンやカスタムパーツは一切含まれず、組み立て工程はすべて嵌め込みと底面にあるネジ留めで完結した。成型色はとても鮮やかなライトブルーないしレッドだったが、ジョーハンのキットに見られるほどの多彩なバリエーションはなかった。実車が「ハイパフォーマンスであることを旨としないコンパクトカーであるから」という理由をもってエンジンを付属させない方針を、より低年齢層に向けた簡易組立キットという方便と結びつけて展開したもので、これらは翌1964年には「クラフツマン・シリーズ」としていよいよ結実することとなる。
ジョーハンの奇策・98セントシリーズとの決定的な違いは、フルサイズ〜インターミディエイトの車種を決してこのラインに組み込まなかったところで、いわばセグメント(車格)による価格差を模型にも反映させたかたちだった。
1963年のamtは雑誌や小売店頭の広告に大きく「インディビジュアライズド・ボックス!」の文字を躍らせて、ボックスアートがついに個別化を果たしたとアピールをおこなったが、実際には上箱に5面あるうちのいちばん小さな面が個別化されたに過ぎなかった。商品の価格が前述のとおりバラバラとなり、それぞれの価格が明記されるのがその面であったからという至極単純な、完全にメーカーの都合以外のなにものでもない仕様変更であった。
1963年のamtは、あきらかに臆面もなくなりつつあった。
立ち去る男の行く先は…
次回、連載第17回にてこれは詳述する話であるが、当時のアメリカ市場はいよいよ本格的に種々のレーシングコンテンツに傾倒しはじめていた。ローカルな改造車レースに過ぎなかったものが公的に、大規模に組織化され、ルールが整備され、競技種目は細分化されていった。1965年にカラー化されるテレビ放送がこの状況をより鮮烈にアメリカ全土へと拡げていくことになるわけだが、その前夜の熱気は今にも発火寸前であった。
amtはその発足から1963年に到るまで、基本的にフォードを筆頭とする自動車メーカー各社と立場を同じくする存在であって、社の性格はフォード・GMのコーポレート・プロパガンダ(御用広告)の色彩がいつまでも色濃かった。製品の制作現場の「より活きた」意見を反映していくつかのレーシングコンテンツに特化したアイテムも皆無ではなかったが、その扱いはあくまで副次的なものであった。大ヒットを記録した’32フォードはあくまで1932年式フォードであって、ドラッグレーシングに特化した姿はあくまで選択肢のひとつにとどめ置かれていた。
ジョーハンほど冷淡ではないにせよ、こうしたレーシングコンテンツへの煮えきらない態度、あくまでもフォード・GMとの関係調整に終始しがちな製品開発、モチーフに深く切り込んで精密化をすすめる方向に対してコストなどの都合からブレーキをかける姿勢、1ドル49セントの壁。こうしたすべてにいつしか不満を抱くようになっていたジョージ・トテフ(連載第4回参照)は1963年、副社長という大きな職位をかなぐり捨ててついにamtを辞するに到る。
amtの事業のほぼすべての実務を任されていたジョージの離脱は、本当なら同社にとって致命打となりかねない痛恨の大事件となるところであったが、最悪の事態は他ならぬ彼自身の周到かつ誠実な姿勢によってみごとに回避された。ジョージは辞意とともに新会社設立の意向、ビジョン、古巣amtに残していくさまざまな懸案の行方と始末について、amt社長のウェスト・ギャロリーにすべて包み隠さずに相談をしていた。
もちろん強い慰留はあったものの、amtにできることとできないこと、設立される新会社にできることとできないことに整然たる目配りのなされたジョージのビジョンにamtは首肯せざるをえず、両社はきわめて円満に袂を分かつこととなった。休む間もなく「仕掛り品」の開発が続くアニュアルキット・ビジネスをいちばんよく知悉する彼なればこそ、彼の新会社モデル・プロダクツ・コーポレーション(MPC)は古巣amtの今後のビジネスに支障をきたさないよう、当座の新製品開発と生産を名を伏せたかたちで請け負うこととなった。
ジョージ・トテフのamt離脱とMPC設立は、間接的に巨大自動車メーカー主導によるプロモーショナルモデル時代の終焉をうながすことにつながった。お仕着せの行儀のよい車だけを売りたいメーカーの意向は、消費者の行儀の悪い(ワイルドな)嗜好の前には早晩時代遅れになることが運命づけられていた。amtできわめて慣例的に用意されていたファーストクラスの席は、自動車メーカーにとって何もせず座ることができるものではなくなった。
野蛮なレースの隆盛は、自動車メーカーが目配りし取り込まなくてはいけない対象にすっかり育っていた。実車・模型の別を問わず、このゲームに参加するすべての者が、時代とのマッチレースを余儀なくされていたのだ。
この記事を書いた人
1972年生まれ。日曜著述家、Twitterベースのホビー番組「バントウスペース」ホスト。造語「アメリカンカープラモ」の言い出しっぺにして、その探求がライフワーク。