1965年 amtの行方、金型の行方
1965年を迎えていよいよ充実するかにみえたアメリカンカープラモ(アニュアルキット)だが、この年amtはのちの大きな禍根となるようなミスをいくつか犯すことになった。
【画像66枚】明暗混在するamtの1965年キット各種を見る!
本連載第18回では1964年の痛恨事として「amtはシボレー・シェベルSSに肝心のエンジンをつけなかった」と書いた。展開初年次からいきなり市場で大評判となったシェベルにまんまとシェアを奪われた存在として、同じシボレーのコンパクト、シェビーII/ノヴァの存在があることはアメリカンカーに通暁する読者ならご存知かと思う。
1964年、シェベル発表後のある時点ではっきりとシェビーII/ノヴァのシェア減少を察知したシボレーは、急遽1964年式モデルに工場出荷時オプションとして強力なV-8エンジン(まず195馬力、さらにシーズン途中からそれを上回る220馬力のターボファイア283)を追加し、翌1965年式モデルではアウトフィットの見直しをおこない、250/300馬力のターボファイア327 V-8エンジンを積んだスーパースポーツ・クーペを追加投入した。
じつにわかりやすくツボを心得たテコ入れだが、もともと中庸な基本形を変えることなくおこなわれた手直しは、やはりシェベルに流れるような新味を求める潜在顧客にはもうひとつ響かなかったようで、ノヴァはGMのラインナップ中唯一シェアが減少したモデルという不名誉をこうむることになってしまった。
1965年、こうした背景の中でamtの1965年式シェビーII/ノヴァの初キットは、シェベルに続いてまたしてもエンジンパーツを含まない年少者向けキット——クラフツマン・シリーズのひとつとしてデビューしてしまった。
クラフツマンは基本的にプロモーショナルモデルをばらして簡易組立を謳う廉価シリーズであり、開始当初からコンパクトカーはその恰好の題材であったが、1965年式という中途半端なタイミング(中庸なフォード・ファルコンを標的とした初代モデル最後の年)に初キット化を果たしたことからも、amtがこのアヒルの子に特段の注意を払っていなかったことは明らかだが、加えてamtはシボレー側からの事前情報開示により、翌1966年式からシェビーII/ノヴァが根本的にモデルチェンジし、そのモデルライフはきっかり2年でさらに更新されることを知らされていた。
1965年時点では、アメリカンカープラモ市場にシェビーII/ノヴァのキットがそれほど大きな波紋をもたらすことはなかったのだが、問題は翌1966年からはじまった。1966年式以降、amtは1965年時点でさして売上の振るわなかったシェビーII/ノヴァを、アニュアルキットのラインナップから完全に外してしまったのである。新しい金型に投じるコストと、シボレーから得た「2代目ノヴァのモデルライフは2年」との情報を勘案したamt財務部が首を縦に振らなかったというのがその理由だった。
アメリカンカーの古参ファンはよくご存知のとおり、ノヴァは1966年式のモデルチェンジ以降がそのモデルライフの本番といえた。1965年式よりさらにクリーンにアップデートされたコンパクトな外見に、350馬力を叩き出す新型ターボファイア327 V-8エンジンの組み合わせは、文字どおりストックカーでのレースに興じるサンデーレーサーに大好評となった。amtの経営陣と財務部にとってぱっとしない車のひとつに過ぎなかったシェビーII/ノヴァは、折からのレーシング・ムーブメントの本格的な盛り上がりを背にマイティーマウス(これは327エンジンの愛称でもある)に化けてしまった。
前年の売上から翌年のラインナップを勘案するamtの保守的なやり方は、こうして完全に裏目に出た。気の毒なamtのカスタマーサポート窓口はじつに1987年の新金型キット発売を迎えるそのときまで「ノヴァ!」とだけ書かれた手紙や「ノヴァは?」といきなり切り出される電話を毎日のように受け続ける羽目に陥ってしまう。
ライセンスの行方が価格にも反映、しかしその経緯は素人の想像とは違って…
前年やや遅れて降ってわいたポンティアックGTOとフォード・マスタングの爆発的大人気は、1965年になっていよいよ盛り上がりをみせていた。ポンティアックGTOはいわゆる「タテ目」へと顔を変え、それにともなってamtは大きな金型改修を実施したが、ハードトップとコンバーチブルをひとつのパッケージに収める効率化が功を奏し、キットの売れ行きは絶好調だった。
フォード・マスタングも1965年式に追加されたスポーティーなファストバックをすかさずamtがキット化したことで売れに売れ、1965年式ハードトップを新規パッケージとして用意しないamtの決定はまったく問題にもされないありさまだった。
amtアニュアルキットの販売状況はきわめて順調に見えた。しかし、1965年次のアニュアルキット発売開始時期(1964年末ごろ)からしばらく経って、1965年も半ばに奇妙なキットが唐突に発売された。つい先日まで大いに売れていた’65ポンティアックGTOが内容もまったくそのままに、パッケージを替えトロフィー・シリーズを名乗って再販されたのである。
先行するアニュアルキットの品番5615-150に対し、新たに品番2600-170ないし-200をつけたこのパッケージは、箱だけを虎模様の新しいものにすげ替えただけでありながら、はっきりと値上がりしていた。
爆発的売れ行きに乗じた値上げのひとことでは片づけられない事情のあるキットだった。このときamtは、このポンティアックGTOの来たるべき1966年次ライセンスを――もっといえばポンティアックそのもののアニュアル・ライセンスをジョージ・トテフ率いるMPCに奪われてしまったのであった。
1965年式までポンティアックGTOは、ポンティアック・テンペストのパフォーマンス・オプションに過ぎなかった。これが来たる1966年、ポンティアックGTOは純然たる独立モデルネームとしてあらためてデビューすることが確定したのだった。このインサイダー情報を商機とみたMPCは、「ニューモデル」を含むポンティアックのアニュアルキット化権を猛烈なロビーイングの末にまんまと奪取してしまった。
はしごを外されて困り果てたのはamtだ。1965年式のモデルチェンジにあたってamtがおこなった大掛かりな金型改修は、それほど著変のないであろう1966年モデルをも見据えた末の仕事であったにもかかわらず、1966年式のポンティアックのニューモデル情報はGTOを含め一切amtには開示されなかった。1965年にボンネヴィル、グランプリ、テンペストGTOの3タイトルをラインナップしながら、翌年これらすべての金型が使えなくなることが確定したamtは非常に苦しい対応に追われた。
トロフィー・シリーズとはある意味「年式落ち」の謂でもあると本連載では過去何度か繰り返し述べてきたが、1965年のうちに箱だけ替えて1ドル70に値上げされたポンティアックGTOは、最も若くしてトロフィー・シリーズ送りに処されし「呪われたキット」となった。
フルサイズのポンティアック・ボンネヴィルとグランプリも1965年式で時間が止まったまま同じ再販が繰り返されたが、市場で古い志向となりつつあった豊富なカスタマイジングパーツがかえって幸いして、市場で飢え渇きはじめていた根っからのカスタムカー・ファンには大いに歓迎された。
背に腹は代えられぬ! クラフツマンとファニーカーの裏にある事情
強烈に光のあたるまぶしい側面がある一方で、1965年のamtが地に落とした影はひどく暗いものであった。その明暗のあいだにある階調には、プリマス・バラクーダといった限定されたアニュアルキット化権の獲得といった明るい新味もあった。MPCが晴れてニューモデルとなったポンティアックGTOをamtから奪ったように、プリマスのまったく新しいポニーカー・バラクーダはジョーハンではなくamtの掌中におさまった。
実車の大きなモデルチェンジと新登場は、アニュアル・ライセンスが切り替わる節目と方便に変わりつつあった。これはすべての模型メーカーにチャンスがあり、すべての模型メーカーにリスクがある時代の到来でもあった。
1965年を実質的な最後に、amtは年少者向けクラフツマン・シリーズのまとまった展開を停止した。クラフツマン最終作は、しばし時を置いて1967年に発売された1966年式ビュイック・スカイラークGS(グランスポーツ)、1966年式のアニュアルキットからエンジンを抜いたものだった。
盛り上がるスーパーカー戦争の蚊帳の外にいたビュイックがポンティアックGTOに触発され、ビュイック・ブランドらしいラグジュアリーな色彩を濃く残したまま生み出したこの特別なインターミディエイトは、4バレル325馬力のネイルヘッド400エンジンを抜き取られるかたちで模型としての運命をひっそり閉じた。
このことからもわかるとおり、クラフツマン・シリーズは使いどころを失った年式落ち金型、いまひとつ人気の盛り上がらなかった金型の最後のもうひと働きであって、年少者のためにというのは結局のところ方便に過ぎなかった。背に腹は代えられないことを暗にはっきり示したamtは、実車のモデルチェンジのたびに積み上がっていくアニュアル金型の新しい使いみちをクラフツマンとは別に見出しつつあった。それはこのときまだショールーム・ストックカーの皮をかぶっていたドラッグマシン、ファニーカーへの金型転用であった。
アメリカンカープラモと日本のカープラモの最大の相違がここにあった。アメリカには年式落ちで二束三文となった市販車がふたたび活躍し脚光を浴びるドラッグレースという道がつねにあって、アメリカンカープラモの総称としてしばしば「ホットロッド・モデルキット」の語が用いられるのはこのためだ。公道での面影を残したまま、狂気じみたスピードを叩き出すヒーローとそのマシンもまた、アメリカではプラモデル化に値する魅惑のテーマなのだ。
※今回は、編集部で用意した画像のほか、読者の方から、お手元のキットを撮影した写真をご提供いただいた。amt製1965年型ポンティアックGTO(トロフィー版、2600-200)は隠善 礼さん、同ポンティアック・ボンネビル(1969年版、T225-200)はOGURAさんからのご提供です。この場を借りてお礼を申し上げます。
この記事を書いた人
1972年生まれ。日曜著述家、Twitterベースのホビー番組「バントウスペース」ホスト。造語「アメリカンカープラモ」の言い出しっぺにして、その探求がライフワーク。