
様々な断片から自動車史の広大な世界を菅見するこのコーナー。今回はコブラを取り上げる。ACエースのシャシーを得たことで生まれたシェルビー・コブラは世界中のレースで活躍をしたが、そのルーツはイギリスのクラブマン・レースにあった。
トジェイロのシャシーに様々なエンジンが載せられた
ACは1904年に3輪トラックの製造からスタートしたイギリスのメーカーで、最初の社名はオートカーズ&アクセサリーズ・リミテッド。1907年にはオートキャリアズ・リミテッドに社名を変更し、その翌年から後々までも引き継がれるACのロゴマークが掲げられた。1911年にはロンドン南西郊外の発祥の土地から、より大きな工場を求めてサリー州テームズ・ダットンに移転している。第1次世界大戦後はアンザーニのエンジンを搭載したモデルを製造していたが、1926年に自社でOHC4気筒エンジンを開発し、1927年には6気筒のエンジンを開発した。世界恐慌後の1930年にはハーロック家が工場を買収。以上が戦前のACの変遷である。

最初のACエースのカタログに使われたイラストは、アールズコートで発表された1号車(AE01)以前のヴィンセント・ディビソンのトジェイロを元にしたプロトタイプのものだった。これは1965年の英国仕様のACコブラ289のカタログで、右ハンドルである。
第2次世界大戦が終わり、モータースポーツが再開されると、より多くの人々がレースを楽しむようになった。ジョン・トジェイロもそのひとりだ。彼はポルトガルの銀行家の父と英国人の母の間に1923年にエストリルで生まれたが、父の逝去後、母の帰国にともない英国で育った。英国ではその時代の恵まれた子供らしくメカノの玩具に親しみ、10代のうちにモーターサイクルを乗り回し、戦争が始まって航空隊に配属されるまでにはクルマも手に入れていた。戦後はコーリン・チャプマンがそうであったように中古車を修理しては転売する仕事を始めたが、壊れたMG TAを手に入れると軽量なボディを載せたスペシャルを製作した。しかしMG TAのシャシーは満足できるものではなく、ジョン(というより、Tojeroの苗字からTojと呼ばれるようになっていた)は自ら車体の開発に取り掛かかり、コンストラクターとなった。トジェイロのシャシーには様々なエンジンが載せられたが、腕の立つクラブマン・レーサーだったクリフ・デイビスはブリストル・エンジンを搭載した。1949年のル・マンで優勝を遂げたフェラーリ166バルケッタ(カロッツェリア・トゥーリング)をコピーしたボディを載せて、レースで活躍を始め注目を浴びた。またヴィンセント・ディビソンはリー・フランシスのエンジンを搭載したトジェイロのシャシーに、やはりフェラーリ166バルケッタ風のボディを載せたが、少しだけトゥーリング風を脱したスタイルになっていた。
シェルビーにとってもACとの結びつきは幸運だった
ACは戦後のモデルの開発を迫られており、トジェイロのシャシーを持ったクリフや、ヴィンセントのバルケッタに興味を持ち、トジェイロにコンタクトをとる。お互いの思惑が一致して契約に至り、その年の秋にアールズコートで開かれたロンドン・モーターショーに新しいACであるエース(ACE)がベアシャシーとともに展示された。エースは洗練されて、もはやトゥーリングの影響を感じさせないスタイルに進化していた。ベアシャシーはトジェイロの設計そのままだったが、そのシンプルで軽量なれど強靭なフレームと、全輪独立懸架の足まわりは、その時点の英国車で最も進歩的だった。ただしエンジンは戦前の1927年に開発されたものだったが。
1953年のロンドン・モーターショーはジャガーXK120を始め、多くの新型スポーツカーが発表されてセンセーションを巻き起こした年だ。そのなかにあっても、ACエースの人気は高かく、翌年にはクーペのアシーカ(ACECA)も加わる。モンテカルロラリーにもエントリーしたが、1956年からより強力なブリストル・エンジンにチェンジされるとル・マン24時間にもチャレンジして、大いなるポテンシャルを発揮した。しかしブリストル・エンジンも1961年には生産を終了する。ACの経営陣はACエースにふさわしいエンジンを探していたが、とりあえずは残ったブリストル・エンジン搭載車を作りながら、英国フォードのゾディアック用のエンジンを搭載したモデルも何台か生産している。このままではACの魅力も相対的に薄れていき、先細りだったかもしれない。だから、キャロル・シェルビーがACを発見したことは、むしろACにとっては渡りに船だったにちがいない。

アメリカ仕様のシェルビーACコブラのカタログ。限定生産のスポーツカーだが、全国のフォード・ディーラーで整備を受けられることが明記されている。モアパワーとなり足まわりが強化されたコブラ427になるとシェルビーの独占となりACからの購入はできなかったようだ。
また、キャロル・シェルビーにとってもACとの結びつきは幸運だった。他にはコブラと呼ばれることになるアングロ・アメリカン・スポーツカーにふさわしい素材はない。1964年にはコブラ289エンジンをデチューンして搭載したサンビーム・タイガーの生産が始まり、TVRにフォード289を搭載したTVRグリフィスも作られたが、もとよりシェルビーACコブラに匹敵する存在ではなかった。またフォードはマスタングにシェルビー仕様の350GTやGT500を設定したが、それもまた別のジャンルだ。もともと、アングロ・アメリカン・スポーツカーにはアラードのような先駆け車があったし、ヒーリー・シルヴァーストンにはキャディ・エンジン搭載車もあった。同時代にもゴードン・キーブル、ジェンセンFF、BMW設計のエンジンからクライスラーへスイッチしたブリストルなどがあった。
しかし、シェルビーACコブラほど豪放なアメリカン・ビッグV8エンジンのオーラを輝かせて、伝説的な存在となった例は他にない。それはエンジンに加えて、基礎となったトジェイロの設計が優れていたことと、ルーツはトゥーリングにあるとはいえ独自のスタイルに発展したボディの魅力の三位一体によるものだろう。