かつての塩の道は安全な稜線地帯に作られた
「どうして塩の道は谷沿いではなく、山の中に作られたのでしょうか?」
千国の庄史料館のスタッフに何気なく話しかけると、意外なほど興味深い答えが返ってきた。
「昔の人は賢かったんだろうなぁ。7・11水害のあと、研究者が塩の道を調査したんだが、道そのものはほとんど無傷だったそうだよ」
彼が『7・11水害』と呼ぶのは、1995年7月11日に信越県境で発生した集中豪雨被害のこと。このとき国道148号とJR大糸線は土砂崩れや土石流でずたずたに寸断され、完全な復旧まで2年もの歳月を要した。ところが、かつての塩の道、千国街道の旧道では大規模な土砂崩れなどは一切発生していなかったというのだ。
江戸時代、千国街道の物流を担っていたのは足の速い馬ではなく、山道に強い牛とそれを御する牛方たちだった。一人前の牛方になると、1頭につき2俵(約94kg)の塩を積み、一度に6頭を追いながら街道を行き来したという。ただし、このあたりは日本でも有数の豪雪地帯のため、牛を使って荷を運べるのは八十八夜(現在の5月2日頃)から小雪(同11月23日頃)までの間に限られていた。積雪期は歩ぼ っ か 荷と呼ばれる人々が各自1俵(約47kg)の塩を背負い、十数人の集団を組んで、日本海から松本盆地へと塩を運び続けたのである。
当時の人々が馬ではなく、牛に頼ったのは、なにより山道に強いため。大雨のたびに崩壊を繰り返すフォッサマグナの谷筋ではなく、安全な稜線地帯に道が付けられていたからだ。
水害のあと改修の進んだ国道148号は、県境付近からトンネルとスノーシェッドの連続となる。そして、急峻な姫川渓谷を抜けると、いきなりといった感じで潮の香りが漂ってきた。