交通が不便だからこそ生き残った日本の原風景
「中央構造線の通る場所は浸食が進みやすいので谷になり、そこへ常に両側の山が崩れ落ちていくわけです」
こんな話を聞かせてくれたのは大鹿村・中央構造線博物館の研究員の方だった。「常に崩れ落ちて……」などと言われると、秋葉街道を旅するのが不安にもなってくるが、ただし、これは何万年とか、何億年という地質学的な時間単位でのお話。人類の歴史でみれば、谷を流れる川のそばに人が棲み着き、そうした集落を結ぶ道が自然発生的に生まれてきたにすぎない。
中央構造線は諏訪湖のあたりから三河湾に向かってほぼ真っ直ぐに延びている。そのため谷筋も、そこを走る秋葉街道もおのずと直線的になっている。立ちふさがる山々も、中央構造線の通る部分は浸食によってコル(鞍部)ができ、峠として越えやすい。巨大断層のおかげで、じつに効率のいい道筋が形作られたわけだ。
山道だから人目に付きにくく、そのわりには移動も素早くできる……。上洛をめざす武田信玄が三河への侵攻ルートとして秋葉街道に目を付けたのは「さすが!」と言うべきだろう。
ところが、ここに現代の自動車道を建設しようとすると話は別なのだった。山そのものが崩れやすいだけに、道幅を広げたり、トンネルを掘り進めることは困難をきわめた。
明治以降、東海と信州を結ぶ幹線道路や鉄道は、西隣の伊那谷や木曽谷に作られていった。そして、交通の不便な秋葉街道沿いの村々は秘境とさえ呼ばれるようになっていく。
信号機がひとつもない大鹿村、『天空の里』と呼ばれる上村・下栗集落、そして、伝統的な祭りが何百年も変わらないスタイルで伝えられている遠山郷などなど、まるで日本の原風景のような山村の姿が昔のまま生き残ってこれたのも、もちろん交通が不便だったおかげである。