いまから1400年前推古天皇が命じた官道建設
『倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣……』
東征の帰途、病に斃れた日本武尊が大和はどんな国よりもすばらしい……と懐かしんだ風景が数々の遺跡とともに、今も息づいている奈良盆地南部。ここから難波の湊に向けて開かれたのが竹内街道である。
神話と歴史の境界がまだはっきりとしない古代王朝の時代、大和盆地には4本の大道があったとされる。南北に伸びる上ツ道、中ツ道、下ツ道、そして東西を横切る横大路である。
このうち、上ツ道は現在の上街道(国道169号)、中ツ道は中街道(国道24号)、下ツ道は下街道(県道5号)としてかすかにその痕跡をとどめている。しかし、横大路にいたってはJR和歌山線北側の住宅地や路地にまぎれてしまい、道としては特定できない。ただ、遺跡調査などから推定される横大路は、幅36m、側溝も備える堂々たる直線路だったという。
そして、今から1400年ほども前、この横大路の西端から、ラクダの背のような2つのくっきりとしたピークをもつ二上山の南を越え、難波の湊にいたる一本の道が開削された。この竹内街道が『日本最古の官道』と呼ばれるのは、日本書紀に記述がしっかり残されているからだ。
『難波より京に至る大道を置く』
小野妹子をはじめとする遣隋使や遣唐使の一行は竹内街道を通って難波から船出し、海外から訪れる使者たちもまたこの道を通って都へと向かった。いわば竹内街道は国の威信をかけた道だったのである。
また、中国や朝鮮半島、さらには西域のさまざまな文物もこの道を通じて大和地方へともたらされた。その結果、花開いたのが、国際性豊かで、きらびやかな色彩を帯びる飛鳥文化である。そんな意味では、竹内街道を西洋と東洋を結ぶシルクロードの東側最終区間と言い切っても、決して大げさではないのだろう。