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コブラでスポーツカーの頂点を極めた後に迷走を続けたACの行く末は【GALLERIA AUTO MOBILIA】#011

コブラの名はレースの歴史に刻み込まれた

コブラの最初のル・マンへの挑戦はACからのエントリーだったが、すでにシェルビーのプロジェクトに組み込まれていた。それは1963年のことで、総合7位とクラス優勝を得た。それからはACコブラ、時にはシェルビー・コブラの名称のほうが有名になったかもしれないが、そのレースでの活躍が歴史に刻み込まれ、コブラはスポーツカーの神話的イコンのひとつになった。
ACのほうでは、コブラ289の生産が1969年まで続けられた。高性能版の427はアメリカでしか販売しないというシェルビー/フォードの方針があったため、独自にAC428というモデルを発表した。排気量こそ427よりわずかに大きかったが、出力はコブラ427には及ばなかった。むしろ、ピエトロ・フルアによる美しく荘厳なスタイルとともに、豪華なツアラーとしての性格を持っていた。

ACはコブラ289の生産の傍ら、428を生み出した。中身こそACエース以来のシャシーが踏襲されたが、フルアのボディを採用することで、フォード・コブラのイメージを払拭することに成功した。

フルアはセルジオ・ピニンファリーナの兄が経営するスタビリメンティ・ファリーナの製図工として出発し、その後、独立した。ギアとのコラボレーションでは、ルノー・フロリードのデザインを手掛けている。フルアの有名なデザインとしては、ドイツのグラースの各車が挙がるだろう。また、とくにマセラティのために多くのデザインをした。そのフルアによる新しいACは注目を浴びたが、ほとんどACにとって、最後のあだ花のような存在となってしまった(フルアにとっても!)。ごく少数が生産されただけで、自然消滅のように忘れられていった。’73年にはミッドシップのAC3000が発表されたが、生産化に取り組むだけの反響も得られず、プロトタイプだけで終わったようだ。やがてACはその活動を休止してしまう。
1990年代の初頭、私は英国に滞在中にACを買わないか、という話を聞いて、ロンドン郊外の工場を訪れたことがあった。しかし、そこは工場というより、倉庫といったほうが正確で、確かに壁には紛れもないACコブラのラダー・フレームが立てかけられて並び、塗装前のアルミボディがいくつも散見されて、数人ほどの工員が手作業でゆっくりと組み立てていた。おそらくフレームもボディも、それぞれどこか別の下請け工場で造られているのだろう。確かに当時の図面通りに再現されているのだろう。カタログも用意されて、英国で最も古くから現代に至るまで現存する自動車メーカーである、ということがアピールされていた。ACを買わないか、という話は、このACという自動車会社そのものを買わないか、という商談だったのだ。

ACエースのクーペ版であるアシーカ(ACECA)は、同時代の英国車のなかでも美しいクルマだった。フルアによる、このクーペも品格があり、野性的なコブラとは違ったオーナー像が伺われる。

数年前にグッドウッド・フェスティバル・スピードの一画で、新しいACを見かけたことがあった。それは、ザガートによるシャープなデザインを持ち、なかなか魅力的だった。聞くところでは、これを南アフリカで生産して、世界中にデリバリーするというプロジェクトが進んでいる、とのことだった。その後、そのプロジェクトはどうなったのだろうか。
シェルビーとの出会いによって、ACコブラの名前は不滅のものとなり、今でもリプロダクションが続いているほどの人気を誇っているが、私はまた新しいACの出現とその成功を祈っている。

Text:岡田邦雄/Photo:横澤靖宏/カーマガジン463号(2017年1月号)より転載
CAR MAGAZINE編集部

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