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かつて存在したマツダのサブブランド『M2』とはなんだったのか――? ユーザーの「生の声」を製品に反映する、時代を先取りした”第2のマツダ”の物語

従来型のクルマ作りにギモン? 答えは会社の外にある!

大学院を卒業した水落さんは1986年にマツダに入社。その後技術研究所の配属となった。技術研究所と言えば、当時量産車とは切り離した先行開発なども手がけていた部門である。NA型ロードスターもこの技術研究所が主導したプロジェクトから誕生したものだ。

「主にモーターショーなどで披露するコンセプトカー作りに携わっていました。新しいブランディング提案もやっていて、例えば当時国産乗用車初のフルタイム4WDをやったのがマツダ(ファミリア)でした。乗用フルタイム4WDをコンセプトに20〜30年後を見据えた今のSUV的なプロトタイプを作って上層部に提案したりしていたんですよ」

日本国内はバブル経済の上昇気流に沸いていた時代。その頃、マツダ社内では首都圏におけるブランドシェア強化への取り組みが進められていた。そんな中、マツダの経営企画室から水落さんが在籍する部署に”M2をやらないか”という話が降ってきたのだ。

「私は部署内では若手メンバーの中心だったこともありグループの課長から『お前がやれ』と指令が出て、M2のコンセプトを練るところから携わることになったんです」

当時、水落さんはまだ入社間も無い若手。だが後のM2ブランドの根幹に関わるある思いをすでに抱いていた。「会社に入って1年ちょっとという頃でしたが、私が感じていたのが量産車に対する秘密主義への疑問です。とにかく全ての量産車の開発をやたらと隠している。メーカーってクルマを一生懸命考えて作るんだけれど、それを買ってもらうのはお客さん。なのに出来上がるまでこっそりクルマを作って、出来上がった途端に”さあ、さあ買ってね!”。それって一方的すぎやしないかな? ってね。私は発信だけじゃなくお客さんの意見を"受信したいな”と思っていました。社員たちと話すとみんな交流範囲も考え方も狭くて、会社の中だけでやりあっているだけで、お客さんの声を直接聞く場というのが皆無だったんです。”国内営業”という部署はありましたけど、それはディーラーさんと話をする部署であって直接お客様の声が入ってくるルートではありませんでした」

水落さんは作り手側がユーザー側と直接コミュニケーションを取る機会がないという状況に危機感を抱いていたのだ。そして、そこにこそチャンスがあると感じていた。

「クルマを開発する人間がいて、実サイズの試作車を前にお客さんと腹を割って話せる場所。そんな場所があれば、私たちも自然とお客さんがどういったクルマを求めているのかというところまでわかってくるはず。お客さんの意見の言いなりではなく、たくさんの意見を受信し消化して次の開発に生かすことができるんじゃないかと。会社の仕組みとしてそうしたことを実現できないかという実験部隊がM2だったんですよ」

プロジェクトへの思いが込められたショールーム

プロジェクト最初の”作品”とも言える「M2 ビル」は今も世田谷区内にその姿を残す(現・東京メモリードホール)。30年近い時を経ても注目度は抜群だ。「当時、M2のソフト運営面のコンペに博報堂が参加していました。博報堂が白羽の矢を立てたのが当時若手建築家だった隈研吾氏。私は、普通の建物では不景気になった途端上層部に売られてしまう、M2持続のためにも簡単に売却されないようにと考え『グウの音も出ないようなデザインで』と依頼したんです」

TEXT:日岐まほろ PHOTO:ティーポ編集部 ティーポ366号より転載

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