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かつて存在したマツダのサブブランド『M2』とはなんだったのか――? ユーザーの「生の声」を製品に反映する、時代を先取りした”第2のマツダ”の物語

ユーザーと作り手との対話は今の時代にこそ求められる

1988年末、水落さん率いるM2プロジェクトが本格的にスタートする。「マツダの2番目のブランド」という意味を持ったM2の発足にあたり、エンジニアとユーザーの交流地点となる拠点「M2ビル」が世田谷区砧を走る環状八号線沿いに建設された。建物は当時若手建築家だった隈研吾による作品だった(M2ビルは新たなオーナーのもと、今も当時の姿を残し存在している)。 そうして1991年12月1日、ついにM2がオープンの日を迎えた。市販車第一弾「M2-1001」の発表・展示・予約会がM2ビルにて行われた。

M2初の市販車「1001」。1991年12月1日のM2オープンと同時に発表された。限定300台、340万円。NA 開発者の立花啓毅氏が細部に至るまで監修した作品。

M2-1001はユーノス・ロードスター開発者のひとりであり、常務としてM2に参加した立花啓毅氏が手がけた1台だった。「カフェレーサー」をコンセプトとするソリッドな仕立てで、価格は340万円と非常に高額。また、購入希望者は直接M2ビルに足を運び予約票を記入しなければならないという強気の販売方式が取られたが、蓋を開けてみれば300台の限定台数に対し800人を超える予約者が訪れたという。

「”こういうクルマを作ってます”というインフォメーションを出している時から大変な人気があることがわかっていましたし、実際に商品に魅力があればM2のアプローチが成り立つことがこの時に実感できました」

メーカーの開発エンジニアやデザイナーが常駐し常にユーザーに開かれた場所としてスタートしたM2には多くのユーザーが訪れ、メンバーとコミュニケーションが重ねられた。水落さんは広報・イベント・ネットワーク・企画など様々な役割を担いながら開発者とユーザーの垣根を取り払うダイレクトコミュニケーションを展開。NAベースのモデルとして「M2-1002」(92年10月/300台限定)、「M2-1028」(94年2月/100台販売)の市販化も実現した。いずれも開発中の工程はM2ビルで報告され、開発担当者と直接意見を交換することができた。

そんな話を聞くと、実際に当時のM2ブランドに触れ、今もその記憶を思い出せる人達は何と幸せなクルマ人なのだろうと思わずにはいられない。

しかしM2の運営は景気減速の煽りを受ける形で継続が困難となり、1995年4月をもってプロジェクトは中止。水落さんはその年末にマツダを退職しているが、ロードスター・オーナーズクラブの全国組織RCOJを発足させるなど、長年に渡ってロードスターオーナーやクルマ好きたちとともに日本のスポーツカー文化を育て続けている。

「実はあの時M2で私たちがやってきたコンセプトは今でも通用することがたくさんあるんです。社員が会社の中にいるだけでは感じられないことを、お客さんから直接得ることで、いい人材が育って、いいクルマを作れるようになる。お客さんにとっては、クルマを作る過程を見ながら開発者に意見を伝え、そのクルマが商品になっていく場に参加できる。そうして手に入れて買ったクルマは手放せないものですし、メーカーへの愛着も深まります。当時、ロードスターをずっと作り続けてもらうために『しょうがない、マツダを助けよう』と、マツダ車を買ってくれる人もたくさんいました。現行のマツダ車はどのモデルを買ってもロードスターみたいに走りも素晴らしいから、今は『しょうがない』はないと思いますけどね(笑)でもまだやれることはたくさんあると思いますよ」

マツダ公式サイト

TEXT:日岐まほろ PHOTO:ティーポ編集部 ティーポ366号より転載

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