1961年 ギルドマンになれなくても
1961年、アメリカではフィッシャーボディ・クラフツマンギルドの夢がまだ続いていた。アメリカンドリームはとかく富と名声の大きさばかりが語られ、到達までの道は曖昧にぼかされがちだが、フィッシャーボディ・クラフツマンギルドの夢は違った。
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自らが思い描いた未来の車のスタイリングを1/12スケールの模型に作り起こし、このコンペティションでその真価を認められれば、5千ドルもの奨学金(現在の価値に換算すると日本円にして730万円余り)と全米ナンバーワンと目されるゼネラルモーターズ(以下GMと略す)のデザインルーム職への洋々たる道がひらけるという、野心と才能にあふれた若者のための発掘事業、その道のりがこの上なく具体的に示されたアメリカンドリーム、それがフィッシャーボディ・クラフツマンギルドだった。
当時ウッドカービング趣味をはじめる青少年の動機として「自分のデザインした車を作りたい」がかなりの数を占めていたことから察せられるとおり、ギルドマン――コンペティションの参加者は誇り高くも自らとライバルたちをそう呼んだ――となるためには木工の才能と経験が不可欠であり、また自らのインスピレーションを描き起こすための製図の技術もまた欠かせないものだった。
主催するGMからは「このように作るとよいでしょう」といった指針は特に示されず、参加者自身の自発的な創意工夫によって困難を突破することまで含んでこそ、このコンペティションの意義はあると積極的に考えられていた。amtは早くからこの「ギルドマンの壁」に着目していた。まだアルミニウム・モデル・トイズを名乗っていた1955年、同社はスタイリングキットと称するフォード・サンダーバードの「模型」を試験的にリリースしていた。
1958年に発表されるいわゆるアメリカンカープラモの初弾とは異なり、プロモーショナルモデルのパーツをフリップトップ箱のインサートに見栄えよく並べて、そこへ粘土と掻き取り用のヘラなど道具一式、テンプレートなどを同梱して「オリジナルデザインの車がこれ一式で自由自在」と謳った商品だった。
立派に車の格好をした芯と粘土という大胆な塑造キットであり、封入されたボディーパーツには(粘土をこんもり盛られてしまうにもかかわらず)レッド・ライトブルー・ホワイトのバリエーションがあった。
本連載第一回にも述べたとおり、プロモーショナルモデルの金型コストをいかに回収するかを秘めたる至上命題に、バラバラのパーツを金型から打ち出したまま箱に入れて商品とする1958年の決断以前、パーツ売りの「方便」を模索するamtの試行錯誤がうかがえるまことに興味深い試みだが、1955年には鳴かず飛ばずだったこの発想が1961年、稀代のカスタマイザー、ジョージ・バリスの全面監修と専用のスプレー塗料を供給したパクトラ・ケミカルの協力を得て突如復活を遂げる。サンダーバードを筆頭とするスタイラインキット(Styline Kits)3車種の発売である。
すでにアメリカンカープラモの大ヒットによって多大な資金とスタッフの大増員、そして自社製造拠点の拡張と設備の強化をじゅうぶんに果たしていたamtは、豊富なオプションパーツ展開の「変奏」として、さらに豊富なフロントマスクやリアエンド、ボディーを延長するエクステンション、クロームホイールといった車のアウトフィットを大きく変えるパーツを投入し、それらをなめらかに接合するための特製パテとサンドペーパーを付属させた。
パーツの形状吟味にはジョージ・バリスが知恵を絞り、パテは別売も見据えてパクトラが用意したが、なによりもamtが注力したのは説明書で、その様相は従来の「組立」説明書とはまったく異なっていた。
むしろ説明書が本体とも言えるシリーズ
説明書には「A Short Story on STYLING」と題した非常に詳細な前書きがあり、自動車のスタイリストとはどのような職業で具体的に何を考えどんな仕事をするのか、ボディーのクリースライン(いわゆるキャラクターライン)やフロントのスイフトバック、リアデッキの長短といったデザイン上のポイントごとの肝要を説き、パーツの組付けはもちろんのこと、パテをどう引いてどう研磨し、仕上げのスプレーはどう噴くか、現代のプラモ入門書も顔色を失うような充実の説明が盛り込まれていた。
GMがフィッシャーボディ・クラフツマンギルドに臨んであえて何もしなかったところを、amtはていねいに拾い上げ、噛んで含ませるように説明し、よくできた素材をすっかりととのえて与え、「さあ、君の夢をかたちにして見せてくれないか」と背中を押した。
このキットを組み上げた先にはもちろんGMデザイン部門の総帥ハーリー・アールはおらず、5千ドルの賞金もGMデザインルームへの道も決してひらかれはしなかったが、面倒見のいいジョージ・バリスや気のいいバド・アンダーソン、ジョージ・トテフらamtのスタッフたちは、各地の模型コンテストの場で出会えば必ず、作品の出来不出来にかかわらず力強くその健闘をたたえてくれたという。
気鋭のカーデザイナーとして名を知らぬ者とてないヴァージル・エクスナーを父に持ち、工作道具を買い与えられてからわずか3年、13歳でギルドマン最高の栄誉に輝いたヴァージル・エクスナーJr.のような夢物語の陰で、amtは指をパテまみれにしながらも思いをとにかく形にした少年たち全員に行き渡るよう、スタイラインキットに光輝くメッキのトロフィーのパーツを必ず封入した。
いまも多くのamtキットに当たり前のごとく入っているトロフィーは、その意味が歳月の経過とともにすっかり忘れ去られ、無意味な不要パーツとして邪険に扱われるようになってもなお、思いを形にせずにいられない者たちをしずかに讃え続けている。
※今回のキットの画像については、作例とパテの写真を除いた全てを、アメリカ車専門モデルカーショップ、フリートウッド(Tel.0774-32-1953)にご協力いただき撮影した。
この記事を書いた人
1972年生まれ。日曜著述家、Twitterベースのホビー番組「バントウスペース」ホスト。造語「アメリカンカープラモ」の言い出しっぺにして、その探求がライフワーク。