コラム

ブランド名「メルセデス」誕生125周年。その名を冠した最初の車「35hp」の革新性

メルセデス 35hpの後継モデル、メルセデス・シンプレックス 40hp。写真は1903年モデル。
メルセデス 35hpの後継モデル、メルセデス・シンプレックス 40hp。写真は1903年モデル。
メルセデス 35hpの後継モデル、メルセデス・シンプレックス 40hp。写真は1903年モデル。
メルセデス 35hpの後継モデル、メルセデス・シンプレックス 40hp。写真は1903年モデル。
最新メルセデス・ベンツGLCのフロントグリル。
メルセデス 35hpのレーシングカー。1901年のニース・レースウィークにて。
1901年に撮影されたメルセデス 35hp。
メルセデス 35hpの高性能4気筒エンジン。
エミール・イェリネック氏。
エミール・イェリネック氏の長女、メルセデス・イェリネック。
メルセデス 35hpの後継モデル、メルセデス・シンプレックス 40hp。写真は1903年モデル。

125年前に「現代の自動車」は完成していた。ヴィルヘルム・マイバッハと「メルセデス 35hp」の技術革命

2025年11月22日は、「現代自動車の始祖」とみなされる「メルセデス 35hp」の誕生から125周年の記念日となる。1900年11月22日に最初の車両が完成したこのモデルは、その後の自動車開発におけるスタンダードを確立し、モータリゼーションの未来を切り開いた革命的な存在であった。

【画像10枚】ブランド名の由来となった少女「メルセデス」。その名を冠した「35hp」とニースを駆けた当時の貴重なレース写真を見る

最大の顧客イェリネックの要望と、愛娘の名を冠した「メルセデス」

メルセデス 35hpは、ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト(DMG)のビジネスパートナーであり、当時最大の顧客であった実業家エミール・イェリネック氏の強い要望によって生み出された。イェリネック氏は1900年だけで72台もの新車をDMGに注文し、ヨーロッパの上流階級へ販売するほどの影響力を持つ、熱心な自動車愛好家だった。

このメルセデス 35hpが開発されることとなった直接的なきっかけは、1900年のニース・レースウィーク中に発生した悲劇的な事故である。イェリネック氏が「メルセデス」という長女のファーストネームを冠した仮名でエントリーさせたダイムラー・フェニックス 23 hpレーシングカーが、ニース‐ラ・テュルビー・ヒルクライムでクラッシュし、ドライバーのヴィルヘルム・バウアーが命を落としたのだ。

エミール・イェリネック氏の長女、メルセデス・イェリネック。

エミール・イェリネック氏の長女、メルセデス・イェリネック。

この事故を受け、イェリネック氏はDMGのチーフエンジニアであったヴィルヘルム・マイバッハに対し、従来の自動車が持つ限界を克服する、近代的でパワフル、かつ安全な車両の開発を強く要求したのである。イェリネック氏がレースで使用した「メルセデス」の名は、後に、DMG製自動車のブランド名として採用されることとなる。

「モーター付き馬車」との決別。マイバッハが示した自動車の新標準

イェリネック氏の要求に応えるべく、DMGの卓越したチーフデザイナーであったマイバッハと彼のチームは、全く新しい設計の車両を開発した。1886年にカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーがそれぞれ自動車を発明してからわずか14年、1900年に登場したメルセデス 35hpは、それまでの「モーター付き馬車」の概念から完全に脱却した、革命的なトータルデザインを特徴としていた。その最大の特徴は、低い重心、長いホイールベース、そして広いトレッド幅にあった。

メルセデス 35hpの後継モデル、メルセデス・シンプレックス 40hp。写真は1903年モデル。

メルセデス 35hpの後継モデル、メルセデス・シンプレックス 40hp。写真は1903年モデル。

これらの要素が組み合わさることで、それまでの自動車では達成できなかった高いレベルでの走行安全性と安定性を実現したのである。さらに、傾斜したステアリングコラムや、足で操作するクラッチを備えたギアボックスなど、人間工学に基づいた重要な改善も施された。これらの特徴は、現代の自動車工学においてもなお、基本的な要素として受け継がれている。

現代のGLCにも息づくハニカム構造。その原点は「35hp」にあり

メルセデス 35hpの革新性は、そのドライブトレインにも表れていた。ヨーゼフ・ブラウナーによって設計された新型の高性能4気筒エンジンは、排気量5.9Lから950rpmという回転数で25.7kW(35hp)もの出力を発生させた。これは当時としては驚異的な数値であった。この高性能を持続させるために不可欠だったのが、ヴィルヘルム・マイバッハの発明によるハニカムラジエーターである。

メルセデス 35hpの後継モデル、メルセデス・シンプレックス 40hp。写真は1903年モデル。

メルセデス 35hpの後継モデル、メルセデス・シンプレックス 40hp。写真は1903年モデル。

この新しいラジエーターは、極めて効率的な冷却を可能にし、エンジンの持続的なハイパフォーマンスを支えた。当初は純粋な技術的必要性から採用された車両前面のハニカム構造であったが、1926年以降、メルセデスブランドの象徴的なデザイン要素として確立されていくことになる。そのDNAは、最近発表された新型メルセデス・ベンツGLCにも受け継がれている。GLCのラジエーターグリルは、この伝統的なモチーフを現代的に再解釈し、自動車の未来を示唆する表現となっている。

ニースを席巻した圧倒的パフォーマンス。レースと日常を両立した最初の「メルセデス」

DMGによって1900年11月22日に完成した最初のメルセデス 35hpは、数週間にわたる厳格なテストと「慣らし運転」と呼ばれる細心のファインチューニングが施された。そして同年12月22日、歴史上最初の「メルセデス」はニースのイェリネック氏のもとへと出荷された。

イェリネック氏はこの革新的な新型車を、翌1901年3月25日から29日にかけて開催されたニースのレースウィークに投入し、圧倒的な成功を収めた。メルセデス 35hpは、392kmに及ぶニース‐サロン‐ニースレースや、かつて死亡事故の舞台となったニース‐ラ・テュルビー・ヒルクライムなどで勝利を収め、参戦した競技会を文字通り席巻したのである。

メルセデス 35hpのレーシングカー。1901年のニース・レースウィークにて。

メルセデス 35hpのレーシングカー。1901年のニース・レースウィークにて。

このクルマは、モータースポーツからの刺激を受けて設計され、レースと日常使用の両方に対応できる多才さも備えていた。当時の顧客は、このクルマをレースと日常生活の両方で使用し楽しんだ。この成功を受け、DMGは1901年に姉妹モデルとしてメルセデス 12/16hpとメルセデス 8/11hpを発売。1902年には、この第1世代メルセデスは「メルセデス・シンプレックス」モデルレンジへと発展する。「シンプレックス」という名称は、当時としては特に「シンプル(単純)」な操作性に由来するものだった。

メルセデス 35hpが誕生した1900年は、DMGにとって未来への礎を築いた年でもあった。同社はウンターテュルクハイムに18万5000平方メートルの広大な土地を購入し、ここが現在のメルセデス・ベンツの主要工場となっている。奇しくも、創業者の一人であるゴットリープ・ダイムラーは、これらの重要な発展を見届けることなく、同年3月6日に65歳でこの世を去った。しかし、彼が遺した革新の精神は会社に受け継がれ、125年後の現在もメルセデス・ベンツを未来へと駆動し続けているのである。

【画像10枚】ブランド名の由来となった少女「メルセデス」。その名を冠した「35hp」とニースを駆けた当時の貴重なレース写真を見る

※この記事は、一部でAI(人工知能)を資料の翻訳・整理、および作文の補助として活用し、当編集部が独自の視点と経験に基づき加筆・修正したものです。最終的な編集責任は当編集部にあります。
LE VOLANT web編集部

AUTHOR

注目の記事
注目の記事

RANKING