陸の孤島ではなく大陸に開かれた表玄関
浦々に点在する小さな町や村をつなぎ、変化に富んだ能登の海岸線をひと回りする外浦街道。のんびり旅するだけ楽しい道だ。しかし、この地に積み重ねられた歴史を知れば、能登路の魅力はさらに大きなものとなっていく。
千里浜なぎさドライブウェイのある羽咋市をすぎると、国道249号・外浦街道を行き交うクルマは急に少なくなる。ここから先、半島をぐるっと回って七尾市にいたるまで、途中にある大きな町は人口3万2000人の輪島市と人口1万6000人の珠洲市だけ。国道からさらに海岸線寄りの県道に入れば、信号も対向車もほとんどない。美しい入り江の道を独り占めにしている気分になってくる。
能登路という言葉からは、さびれた印象を思い浮かべる人の方が多いのではないだろうか。かつては交通の不便さゆえ、『陸の孤島』という形容詞も使われてきた。しかし、実際にここを走っていると、最果てに来ている気分はまるでない。海も山もおだやかで、町並みには落ち着きがあり、人の話す関西訛りの言葉にもどことなく上品な響きがある。
日本という国は、古くから大陸の文化や文明を積極的に受け入れてきたわけだが、その表玄関となったのが、能登をはじめとする日本海沿岸だった。
羽咋市の気多(けた)大社近くにある寺家遺跡では、最近、西域シルクロードとの交流を示す遺品が数多く出土し、 『汀(みぎわ)の正倉院』とまで呼ばれている。また、古事記や日本書紀によれば、第26代の皇位に就いたのは、越国(現在の北陸地方)から出た継体天皇(在位507〜531年?)とされ、このあたりが大和や九州北部と並ぶ古代の一大勢力圏だったことも物語っている。8世紀から10世紀にかけては、中国東北部で栄えた渤海が30回以上にわたって日本へ使節を送ってきた。彼らを迎える客院が設置されたのが能登金剛の近くにある福浦港といわれる。いまの福浦は、そんな過去が信じられないほど、小さな漁村なのだが……。
江戸時代になって、東海道が活況を呈するようになっても、全国の物流を支えたのは、日本海沿岸を行き来する北前船だった。まるで『陸の孤島』ではなかったのである。