愚かな領主が引き起こしたキリシタンの大蜂起
複雑に入り組んだ海岸線をもつ長崎県の南東端に、大きく突き出しているのが名峰・雲仙をいだく島原半島。まるで火山島のように海から立ち上がる雲仙は、過去に何度も噴火を繰り返し、被害をもたらしてきた。しかし、地元の人たちはこの山を愛してやまない。
島原の乱というと、学校の授業では『キリシタン弾圧に対する信徒の武装蜂起』と教わったような気がする。しかし、実際のところはかなり違っていたようなのだ。そこに浮かび上がってくるのは、領民を苦しめた一人の悪大名の存在である。
初代島原藩主、松倉重政はもともと豊臣秀吉の配下で、大和国に根拠を置く武将だった。それが機を見て徳川家康に取り入り、関ヶ原や大阪ノ陣で功をあげ、ついには大名にまで成り上がっていくことになる。
肥前高来郡(島原半島一帯)四万二千石の領主に任ぜられると、まずしたことは、江戸城拡張工事における身分不相応な十万石相当もの賦役請け負い。そして、上におもねることばかりに執心していた権力者が、ゆかりのない土地でやることといえば、領民を搾りあげること。さらに幕府からキリシタン対策を咎められると、今度は雲仙地獄での熱湯責め、『蓑踊り』と称する蓑を着せての火あぶりなど、取り憑かれたように残虐な弾圧をはじめる。
気候温暖で、海山の幸に恵まれた島原は疲弊してゆき、寛永14年(1637年)、ついには謎の少年・天草四郎を総大将とする領民3万人の一揆として大爆発を起こしたのである。
反乱軍の全滅で人口の約半分を失った島原半島は、その150年後、ふたたび悲劇に襲われる。寛政4年(1792年)、普賢岳の噴火と地震で、島原城の西にそびえる眉山が崩壊し、城下を埋め尽くしたのだ。さらに崩れ落ちた土砂は海に達すると津波を引き起こし、これが幅20km足らずの島原湾を何度も行ったり来たりした。『島原大変肥後迷惑』と伝えられる天災は、対岸の熊本や天草諸島にも甚大な被害をもたらし、死者は1万5000人にも達したという記録が残る。
そして、『島原大変……』から200年後、われわれの記憶にも新しいのが平成2年(1990年)の雲仙普賢岳噴火である。翌1991年には報道陣も巻き込んだ火砕流で47名の犠牲者を出し、5年におよぶ噴火で2600棟あまりの建物が埋めつくされた。
島原街道をめぐると、こうした悲劇や災害の爪痕を生々しく目にする。