古代東海道の時代に関が置かれた宿場町
昔ながらの風情が色濃く残る東海道・関宿。その西にそびえる山並みを越えていくのが鈴鹿峠である。この道が開かれたのは、参勤交代やお伊勢参りの人々が行き来した遙かに前の時代。古代の東海道を東に向かう都人にとって、鈴鹿峠の向こうは化外の地“東国”だったのだ。
江戸から数えて47番目の宿場町、三重県亀山市の関宿には、かつての東海道に沿って昔ながらの家並みが軒を連ねている。宿場街の全長は約1.8km。東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する交通の要衝だっただけに、その賑わいは東海道随一とも言われていた。
『関は千軒、女郎屋は沽券(転ばない)、女郎屋なくては関立たん』
当時はこんな戯れ唄も歌われ、一説によると、旅人相手の飯盛女が2000人もいたという。
関という地名はここに関所が置かれていたことに由来する。ただし、関所と言っても江戸時代のものではない(幕府が東海道に設置したのは箱根関所と新居関所)。古代東海道の関である。
北陸道の愛あらちのせき発関(近江/越前国境)、東山道の不破関(美濃国)とともに、畿内の守りを固める『三関』のひとつとして、鈴鹿関が作られたのは天武天皇(在位673年-686年)の時代。いまやその痕跡はまったく残っていないが、最新の調査によると、関宿の少し南寄り、鈴鹿川右岸あたりにあったらしい。
古代の東海道は、関宿から西は伊賀越えのルートで辿っていた。官道はすべて大和盆地を起点としていたためで、現在の国道25号に近い道筋である。一方、鈴鹿峠越えの東海道が文書の記録に出てくるのは平安時代の仁和2年(868年)のこと。ただし、平安遷都から100年近くも東国への最短ルートが開かれなかったとは考えづらく、近江大津宮へ遷都した天智天皇(在位668-672年)の時代には鈴鹿越えの道があったという説もある。
東海道の鈴鹿峠は今も国道1号のすぐ脇に残っている。旧・坂下宿の外れ、片山神社にクルマを置いて徒歩で約30分。鬱蒼とした木々のなか、苔むした石畳の残る急坂を登り詰めると、国道1号の上り線トンネルの真上に出る。
旧道の峠と現代のトンネルの標高差はわずか20mほど。少なくとも1100年以上も前から、変わらぬ場所を峠道が抜けていたことにちょっとした感動を覚える。