ドイツの路上で受けた、思いがけない忠告
ドイツで、ライトを消して叱られたことがある。
ニュルブルクリンクへ向かう道だったと思う。近郊の小さな村には信号機があったのだが、小雨の降る薄暮に信号待ちをしていた。その時僕は、対向車を自車のライトが煌々と照らしていたから、眩しかろうと気を遣ってあえてスモールライトにスイッチした。すると、その対向車のドイツ人が、ツカツカと歩み寄ってきて、僕にこう注意した。
「なぜ消すんだ。点けておけ」
日本でデイライトが広がらない「もったいない」文化の壁
他人の行動を指摘することは、監視社会のドイツで頻繁にあることなのだが、それにしても雨に濡れてまでして忠告してくることに驚いた。
日本では長い間、ヘッドライトとは「暗くなったら点けるもの」だった。昼間から点灯していると、「ライト点いてますよ」と親切に教えてくれる人さえいた。今でも、年配のベテランドライバーは、わざわざパッシングでライトの消し忘れを知らせてくれることもある。つまり僕らにとってライトとは、あたりが暗くなってから、自分が前を見るための照明だったのである。
だが、ドイツ人の感覚は少し違った。ライトは、自分が見るためだけではない。相手から「見つけてもらう」ためのもの。そんな認識が根強い。
現在のドイツでは、乗用車が晴天の昼間にライトを点灯して走ること自体は義務ではない。ただし昼間でもロービーム、あるいはデイタイムランニングランプを使用することが推奨されている。昼間に光るクルマは、もはや特別な存在ではない。無灯火のクルマを探す方が大変だと思う。
一方、日本でもいまや「昼間走行灯」が正式に規定されている。その目的も明快で、昼間に自動車の存在を他の交通から認識しやすくするための灯火である。
ところが、である。日本ではなかなか「デイライト運動」そのものが広がらない。なぜ日本人は、昼間にライトを点けたがらないのだろう。僕はそこに、技術ではなく文化の問題があるような気がしている。
「私はここにいます」——見られることで身を守る
日本では昔から、必要のないものは消すのが美徳だった。部屋を出るなら電気を消す。水道は出しっぱなしにしない。クルマを降りればエンジンを止める。使わないものを動かしておくことに、どこか「もったいない」という罪悪感がある。だから昼間のヘッドライトも、「明るいのに点ける必要はない」と考えてしまう。だが、ここには大きな勘違いがある。デイライトは自己主張ではない。
「私はここにいます」
その合図なのである。
そもそも交通事故を防ぐために重要なのは、こちらが相手を見つけることだけではない。相手にこちらを発見してもらうことも、同じくらい重要なのだ。自分が相手を見ているから安全なのではない。相手が自分を認識しているかどうかが重要なのだ。
ミラーの死角に潜り込んだ瞬間、そこにいるのに「いないクルマ」になってしまう。交差点で右折しようとしている対向車。脇道から出てこようとしているクルマ。横断しようとしている歩行者。自転車に乗る人。こちらからはよく見えている。だが、向こうからも見えているとは限らない。
とくに危険なのが、晴れた日の木陰や逆光である。明るい場所から暗い場所へ入った瞬間、人間の目はすべてを瞬時に拾ってくれるわけではない。黒やグレーのクルマなら、背景に溶け込んでしまうこともある。雨の日や曇天、夕暮れ前ならなおさらだ。
そんなとき、フロントに二つの光があるだけで、クルマは背景から浮かび上がる。
「ここにいるぞ」
ライトは、そう声を出しているのである。
LED時代の今こそ、スイッチひとつの安全技術を
しかもLEDの時代になった。昔なら昼間からヘッドライトを点けっぱなしにすることに、「電気がもったいない」「バルブが切れる」という心理的抵抗もあっただろう。だが現在は、そもそも昼間に使用するために設計された灯火である。だったら、使わない理由を探すほうが難しい。
一般的なデイライトは前方への存在アピールが主目的だから、雨や霧、薄暮などではロービームを点灯したほうがいい。大切なのは、ライトを「暗くなったから点ける装置」という古い常識から解放することだと思う。これはADASよりずっと原始的な安全技術である。
カメラもレーダーもAIも使わない。スイッチひとつ。それだけで、人間という世界でもっとも大量に走っているセンサーに、自分の存在を知らせることができる。これほど安上がりな安全装備もない。
「私はここにいます」
そう名乗りながら走る。道路の上では、少しくらい目立ちたがり屋でいい。いや、命にかかわるのだから、むしろ目立った者勝ちなのである。