日本の輸入自動車ビジネスの礎を築いた偉大な足跡
株式会社ヤナセホールディングスは2026年11月4日、同社の創業者である梁瀬長太郎氏が2026年の「日本自動車殿堂」に選出され、殿堂入りを果たしたことを発表した。
【画像5枚】関東大震災の復興を支えた2000台のGM車。輸入車ビジネスの祖、ヤナセ創業者・梁瀬長太郎氏の功績
今回の選出は、大正の自動車産業黎明期における、同産業の拡大への多大なる貢献が高く評価されたものである。日本自動車殿堂はその理由として、同氏が梁瀬商会を創業して米国からの自動車輸入を拡大したことや、ボディ製造、部品販売、自動車免許取得教育、さらには自動車修理業を推進したことを挙げている。
「クルマは値段が高くて危険」な時代に挑んだ創業期
梁瀬長太郎氏は1879年(明治12年)、群馬県に生まれた。東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、大阪商船、三井物産での勤務を経て、1915年(大正4年)に「梁瀬商会」を創業する。
当時、日本の自動車保有台数はわずか1000台程度であった。「自動車は値段が高くて危険」というネガティブな印象が強かった時代において、三井物産が一度は取り扱いを停止した自動車事業を引き継ぎ、独自の道を切り拓いていった。1922年(大正11年)には、現在の国内自動車メーカーに先駆けて純国産車「ヤナセ号」の試作にも取り組んでいる。製造コストの兼ね合いで量産化こそ断念したものの、本業の輸入車販売に軸足を置きながら国産車開発にも挑んだ先見の明には驚かされる。
「復興には物より人の移動が優先する」――関東大震災での決断
梁瀬氏の偉大な功績を語る上で欠かせないのが、1923年(大正12年)の関東大震災時のエピソードである。未曾有の災害に際し、出張先の米国にいた梁瀬氏は「復興には物より人の移動が優先する」と確信した。周囲はトラックの輸入を勧めたが、その反対を押し切ってゼネラルモーターズ(GM)に乗用車2000台を発注した。この英断は見事に的中し、輸入された自動車はわずか半年で完売。日本の震災復興に大きく貢献するとともに、梁瀬自動車の飛躍的な発展をもたらした。
その後も、整備業界の発展のために業界団体を設立するなど、自動車産業の裾野を支える環境整備に尽力。1945年(昭和20年)に社長職を次男の梁瀬次郎氏に譲った後も、会長として戦後復興と社業再興に親子で心血を注いだ。
なお、日本自動車殿堂には、ヤナセ2代目社長・会長を務めた梁瀬次郎氏も2001年(平成13年)に初代殿堂者として選出されている。今回の長太郎氏の選出により、親子2代での名誉ある殿堂入りとなった。日本のモータリゼーション、とりわけ輸入車文化を牽引し続けた「ヤナセ」のDNAが、改めて歴史に刻まれるニュースと言えるだろう。
【ル・ボラン編集部より】
輸入車に貼られた「YANASE」のステッカーが、なぜこれほどまでに特別な響きを持つのか。その答えは、創業者・梁瀬長太郎氏の足跡にある。氏が行ったのは単なる車両の輸入ではない。関東大震災の混乱下で「人の移動」の本質を見抜き、修理や教育といったインフラまで含めて「クルマのある人生」の土壌をゼロから耕したのである。最新のデジタル設備と変わらぬ人間味あふれるおもてなしが共存する現代のショールームにも、その哲学は息づいている。ハードウェアの進化を超え、人とクルマを結ぶ信頼の文化を築いた功績は計り知れない。
【画像5枚】関東大震災の復興を支えた2000台のGM車。輸入車ビジネスの祖、ヤナセ創業者・梁瀬長太郎氏の功績