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ポルシェの後塵を拝した悲運のヒーロー「フェラーリ 512S」【GALLERIA AUTO MOBILIA】#013

様々な断片から自動車史の広大な世界を菅見するこのコーナー。今回は1970年代の最初の年に登場したフェラーリ512Sの思い出を語りたい。結果的にポルシェ917の後塵を拝したが、悲運のヒーローとして鮮烈な存在だ。

悲運なれども、忘れがたい512S

1970年は、フェラーリ新体制の始まりの年だった。エンツォ・フェラーリは72歳となり、後継者の問題もあったが、ようやく前年の1969年にフィアットとフェラーリ社の買収交渉がまとまっていた。フィアットがSEFAC(株式会社フェラーリ)の株式40%を買い取ったのだ。エンツォは依然として残りの大部分の株を所持していたが、それもエンツォ逝去の際にはフィアットに譲渡する契約になっていた。買収合意以降、フェラーリ社の全体のマネージメントや生産車部門はフィアットが関与するが、レース部門についてはエンツォの意向が尊重される体制となっていた。

1967年までのスポーツカーレースでのフォードとの戦い、そしてF1では新興勢力との戦いにエンツォもスクーデリア・フェラーリも疲弊していたのだろう。1968年から1969年にかけてのフェラーリのレース活動は精彩にかけていた(ただし、1969年のタスマンシリーズではクリス・エイモンがディーノ246で、ヨーロッパ・ヒルクライム選手権ではピーター・シェッティが212Eでチャンピオンを獲得している)。
しかし、1970年のシーズンに向けては、マラネッロも意欲的な活動を再開していた。F1では、重心の低いボクサー・エンジンを初めて搭載した312Bが投入され、ジャッキー・イクスとクレイ・レガッツォーニを擁してシーズン後半では4勝を挙げて、チャンピオンを狙えるポジションにまで返り咲いたのだ。

イタリアのレース専門誌『アウトスプリント』の512S発表時の綴じ込み付録はフェラーリの広報資料に基づく。

そしてスポーツカーレースにも、ワールド・チャンピオン獲得のための新兵器『512S』が開発された。これは1969年からプロトタイプの3リッターまでという排気量制限に対して、5リッターまで認められるスポーツカーの年間最低生産台数の規定が、50台から25台に引き下げられることに対応したものだった。フィアットからの資金を得られたこと、そして相手がこれまでの巨大企業フォードではなく、ポルシェであったことも大きな要因だろう。というのも、これまで2リッターから3リッター・クラスで戦ってきたポルシェが1969年のシーズンに向けて、突然5リッター・クラスの917を開発し、25台用意したことにエンツォも驚いたが、初年度の917は大した成果を挙げられずにいたためだ。エンツォを始め、マラネッロやトリノの面々は、512Sによるフェラーリの楽勝を信じていたようだ。
1969年11月6日に記者会見が催され、512Sが姿を現した。基本的に1968年11月のCAN-AM最終戦に登場した612Pや、1969年のスポーツカー選手権に投入された312Pに近いモデルで、細いマルチ・チューブラーフレームのセンター部分にアルミ・パネルを取り付けたセミ・モノコックのシャシーに、612Pのエンジン排気量を縮小したものを搭載した。

巨大なマシーンだが、シャシーはごく細い鋼管で組まれた繊細な作りだった。

1970年1月31日、フロリダのデイトナ24時間レースにて512Sはデビューした。ワークス・チームとしては3台を投入。#26はベテランのニーノ・ヴァッカレラと期待の新人イグナッツィオ・ギュンティのイタリア人コンビ。#27はイクスとヒルクライム・チャンピオンのピーター・シェッティ、#28はマリオ・アンドレッティとアルトゥーロ・メルツァリオが組んだ。それ以外にもNARTからダン・ガーニーとチャック・パーソンズのアメリカ人コンビが。またイタリアからもプライベーターのマンフレディーニとモレッティが出場している。
そして予選では、#28がアンドレッティの操縦で見事にポールポジションを獲得。しかし、ポルシェは思いのほか手強かった。1年早くデビューしていた917は初年度から多くの改良が加えられ、とりわけ空力の改善が著しかった。またレース活動はポルシェ・ワークスではなく、スポーツカーレースで数多くの優勝を遂げてきた名門ジョン・ワイヤーに委ねられ、ポルシェ本社は開発に専念する体制となり、これまで以上に戦闘能力は増していたのだ。予選で917は、2、3、4位を占めて、ポールポジションの512Sを包囲した。果たしてレースが始まると917が優勢となり、波乱のレース展開の末に2台の917に次いで3位に#28の512Sが入った。

最初に発表されてからレースに登場するまでには、スポイラーが付加されている。’70年は日本のレースにも登場したが、横綱相撲で堂々の優勝だった。

2戦目は50日後の3月21日に開催されたセブリング12時間で、再びアンドレッティの512Sがポールポジションを獲得。しかしレースでは、917も512Sもトラブルに見舞われて、ほとんど全滅に近い有様を呈した。11時間後にはなんと、ピーター・レブソンとスティーブ・マックイーンの乗る非力な908がトップを走っていたのだ。そこに足まわりのトラブルを修理して、2位まであがってきたヴァッカレラの512Sにエースのアンドレッティが乗り込み、残り30分のところで908を抜き、同一周回ながら辛くも優勝を遂げた。ここまでの2戦で1勝1敗。512Sは917に比べて燃費が悪く車重が重いという弱点が露呈したが、まずまず互角の勝負が出来そうだった。
しかし、その後、ヨーロッパに舞台を移した選手権で、512Sはもはや917の敵にはならなかった。大きな期待の下に生まれた512Sだったが、917に一日の長があり、翌年に改良版の512Mに進化して、ようやく917に一矢が報えるかと思われたが、マラネロは1972年のシーズンを見据えた312Pの開発に駒をすすめる選択をした。そのため、512Sのワークス体制でのレース活動は事実上1970年のわずか1年だけで終わってしまった。
活動期間は短く輝かしい戦歴を残すことも出来なかったが、それでも512Sの印象は今でも鮮やかだ。

Photo:服部佳洋/カーマガジン465号(2017年3月号)より転載

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