旅&ドライブ

築城の名手・清正公の技術を受け継いだ石橋をめぐる「石橋街道」(熊本県)【日本の街道を旅する】

堅牢な石橋と言えば中世ヨーロッパの町並みを思い浮かべる人が多いかもしれない。しかし、日本でも熊本には数多くの石橋が点在する。清正公伝来の石組み技術と阿蘇の火山岩。これに人々の熱意が加わり、すばらしい風景が生まれた。

石組み単一アーチ橋としては国内最大の霊台橋。日没から約2時間はライトアップされる。

数多くの戦国武将の中にあって、築城の名手と謳われたのが加藤清正である。秀吉の九州平定ののち、加藤清正が肥後国に入ったのは天正15年(1587年)のこと。そして、関ヶ原戦の翌年から7年がかりで築き上げたのが壮大堅固な熊本城だった。

霊台橋の近く、緑川の2本の支流が交わるところに架けられた二俣二橋。地元では『双子橋』と呼ぶ。

この城を訪れると何より石垣のうつくしさに感動する。『武者返し』と呼ばれる微妙なカーブは、地面から60度ほどの角度で立ち上がると徐々に傾斜をきつくしてゆき、最上部ではほぼ垂直に切り立つ。さまざまな形をした石が一分の隙もなく組み合わされ、どうしたらこれほど精緻な面や曲線を作り出せるのか不思議に思うほどだ。
こうした清正公伝来の築城技術を受け継ぎ、江戸から明治にかけて数多く作られたのが熊本の石橋である。

脇に新しい道路ができ、クルマの通行が規制された石橋は絶好の憩いの場。この日、近所の人たちが名物・ダゴ汁を作るため集まっていた。

この石橋群の中で最も大きいのが美里町にある霊台橋だ。全長は90m、高さは16.3mにも達する。
完成は弘化4年(1847年)というから今から150年以上も前のこと。クレーンもない時代にこれほど大きな石橋を作り上げること自体すごい話だが、さらに驚くのは、この橋が昭和40年代までは国道215号の橋梁として使われていたことだろう。

御船町の下鶴橋はクルマの通行も可能。大型車は規制されているものの、緑川流域にはこうした現役の道路橋がいくつもある。

「いまじゃ国の重要文化財になって大切にされとるが、昔はバスやトラックが平気で行き交っとったですよ」
地元のお年寄りからこんな話を聞いた。自然の石をアーチ型に組み上げただけなのに、何十トンという重さに耐えられる強度をもっているのだ。

不毛の台地を水田に変えた石組みの通水橋

緑川流域にこれほど多くの石橋が作られた理由はおもに2つある。まず熊本城の築城に際して、高度な石組みの技術が伝えられたこと。さらに、太古の阿蘇の大噴火により、切り出しやすい溶結凝灰岩がこの地には大量に存在していたのだ。ただし、その陰に石橋作りにかける地域住民の熱意があったことも忘れてはならない。

通潤橋の取水口にある円形分水。これで水を平等に分け合っている。

江戸時代に作られた石橋の大半は、地元の庄屋が私財を投じたり、資金集めをして、肥後石工の指揮のもと、多くの農民たちが建設に従事した。つまり公共事業ではなく民間事業である。
その代表例が、幕末の嘉永7年(1854年)、五老ヶ滝川の谷に渡された通潤橋。石橋の内部には3本の導水管が通り、川の南から水源のない北側台地へ、サイホンの原理を応用して灌漑用水を送る通水橋である。

用水路をまたぐ田んぼのあぜ道にもこんな立派な石橋が架けられていた。もちろん名はない。

この事業を立案したのは矢部郷(山都町矢部地区)の惣庄屋・布田保之助。これに霊台橋も手がけた名石工、宇市・丈八・勘平の3兄弟が協力し、近郷の農民たちが総出で作業に加わった。1年8ヶ月かけて完成した通潤橋の水は、いまもなお150ヘクタールほどの水田を潤しているという。

熊本城の石垣は、『武者返し』とも、『清正流』とも呼ばれる美しいカーブを描く。西南戦争では、この堅牢な石組みが西郷隆盛を盟主とする反乱軍の猛攻を食い止めることになった。

ところで、加藤清正の築いた熊本城がその真価を発揮したのは、築城から270年もたった西南戦争のときだった。西郷隆盛率いる反乱軍は堅牢な城壁を攻め破ることができず、新政府の援軍により田原坂で壊滅。そして、西郷の死をきっかけに、日本各地で燃えさかっていた反政府運動は徐々になりをひそめていく。

水源のない対岸の田畑を潤してきた通潤橋。休日の放水時には多くの観光客が集まる。

すぐれた戦略眼をもつ清正公も、自分の築いた石垣が近代国家の安定に貢献したり、田畑を潤す通水橋を生んだり、はたまた、石橋の上をエンジン付きの乗り物が行き交う時代になろうとは思いも寄らなかっただろう。

街道ひとくちメモ

一般に石橋街道と呼ばれているのは、国道445号(御船町〜山都町間)と国道218号(美里町〜山都町間)をつないだ60kmほどの区間。ここを流れる緑川とその支流に架かる石橋は『緑川流域の石橋群』と呼ばれ、御船町/山都町/美里町の3町におよそ80基が現存する。

トラベルガイド

01【見る】
不毛の台地を水田に変えた
通潤橋(つうじゅんきょう)

嘉永7年(1854年)、水源の乏しい台地に灌漑用の水を送るため建設された通水橋。高さ20m、長さ75mは、緑川水系の石橋群のなかでも最大級の規模を誇る。土日・祝日の正午から行われる放水は、本来、導水管内部のゴミを除去するために行われてきたもの。田植えなど水需要の多い時期には実施されない。

●山都町長原/0967-72-3360(通潤橋史料館/入館料300円/10:00-16:00/不定休)

 

02【見る】
農村の文化を今に伝える
清和文楽館(せいわぶんらくかん)

文楽とは、人形と浄瑠璃、三味線の3つを組み合わせた伝統芸能。ここ山都町清和地区(旧・清和村)では、農閑期の娯楽として江戸時代の末頃から盛んになり、いまも保存会の手で昔のまま受け継がれている。道の駅に併設された文楽館には資料展示があるほか、休日などには定期公演も実施している。


● 公演鑑賞料1, 600円(入館のみ500円)/9:00〜16:30/火曜休館/山都町大平152/0967-82-3001

 

03【食べる】
霊台橋を一望できる食事処
石橋の里(いしばしのさと)

日本一の石橋・霊台橋を眺めながら、ゆったり食事を楽しめるスポット。ヤマメや旬の野菜など地場産の食材を用い、化学調味料を一切使用しない素朴な味付けが魅力で、石橋御膳(1,500円)などが人気メニュー。

店の裏に湧く清らかな湧水を使ったコーヒーもお勧め。予約をすれば夜も利用することができる。

●11:30〜17:00(17:00からは要予約)/水曜&第2木曜定休/美里町清水1161/0964-47-1737

04【歩く】
3333 段の石段は日本一
御坂遊歩道(みさかゆうほどう)

石組みの文化を後世に残すため、美里町が建設した遊歩道。釈迦院に続く参道に作られた石段は3333段あり、この数はもちろん日本一(従来は山形県羽黒山の2446段)。地元の石だけでなく、世界各国の御影石を持ち寄り、昭和55年から約8年がかりで完成した。頂上を目指す時は焦らずマイペースが肝心。

●美里町阪本/0964-47-1111(美里町企画観光課)

 

05【泊まる】
底から湧き上がる濁り湯
地獄温泉・清風荘(じごくおんせん・せいふうそう)

標高750mの山中にたたずむ地獄温泉は古くから親しまれてきた湯治場。この清風荘は3本の源泉を持ち、いながらにして湯めぐりを楽しめる。人気は混浴露天『すずめの湯』で、ぽこぽこと尻の下から湧き上がる灰白色の硫黄泉は、天与の恵みとでも言うべき極上の湯だ。地場の食材を使った田楽料理も魅力。

●南阿蘇村河陽2327/0967-67-0005 ※現在営業休止中。2020年4月「地獄温泉・青風荘」として再開予定。

アクセスガイド

【電車、バス】JR熊本駅から通潤橋をめざすときは、まず熊本駅前電停から市電に乗り辛島町電停で下車(所要時間10分)、熊本交通センターから矢部行きのバスに乗る。最寄りの浜町までは1時間20分、通潤橋まではさらに徒歩10分。石橋街道周辺は公共交通機関が少ないので、レンタカーが便利だろう。
【クルマ】最寄りのインターは九州道・御船ICまたは松橋IC。御船ICまでは九州道・福岡ICから115km/1時間30分、大分道・大分ICからは128km/1時間45分ほど。御船ICを起点に、国道445号と国道218号を走って石橋街道をぐるっとひと回りするとトータルの走行距離は62kmになる。

【観光情報】熊本市総合観光案内所096-322-5060/山都町観光協会0967-72-3855/美里町企画観光課0964-47-1111

※掲載データなどは2011年9月末時点のものです。実際におでかけの際は、事前に最新の情報をご確認ください。

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