一本北の八十里越えはいまなお分断国道として残る
六十里越の10kmほど北で会越国境を抜けていく八十里越(国道289号)は、幕末の長岡藩家老、河井継之助の終焉の地として知られている。
司馬遼太郎の歴史小説『峠』に描かれた河井継之助は、ひと言でいうなら、封建制度の枠にとらわれず、思うがままに生き、潔く散っていった男。藩政改革で財政を立て直し、いち早く近代兵器を導入し、戊辰戦争(北越戦争)では武士としての義を貫いて新政府軍とよく戦った。しかし、このときの傷が原因で破傷風を発症し、会津若松の鶴ヶ城へと落ち延びる途中で最期を遂げたのだ。
小説の影響もあって、継之助こそ「最後の侍」と賞賛する人も多く、その人気ぶりは地元の長岡市内だけでなく、奥会津にまで立派な記念館があることからも窺い知ることができる。
その河井継之助ゆかりの八十里越えは、2つの城下町、長岡と会津若松を最短距離で結ぶ道だけに、古くから人や物が盛んに行き来してきた。ただし、その名の由来も六十里越と同じ。八里の道のりが八十里に思えてしまう山道には、国道289号となった現在でも約20kmの未開通区間が残っている。いわゆる分断国道である。
六十里越の福島側、会津盆地の南西部に広がる奥会津地方は、関越・北関東・東北・磐越・北陸という5本の高速道路が形作るサークルのほぼ中央に位置し、大げさにいえば、陸上交通網の真空地帯になっている。奥会津地方は栃木、群馬、新潟の3県と接しているが、いずれも深い山並みが連なり、なかでも群馬/福島県境は陸続きでありながら自動車道が通じていない全国で唯一の場所(長野/富山県境は一般道はないものの、トロリーバスの走る立山黒部アルペンルートが抜けている)。昔ながらの風土や手つかずの自然がそのままの姿で残されているのだ。
六十里越とは別に、この国道252号に最近付けられた愛称は「雪わり街道」。春の雪解けを待ちきれず、固く降り積もった雪を叩き割って地面を露出させることをこのあたりでは昔から「雪わり」と呼ぶのだそうだ。