125Sがその後のフェラーリの基礎となった
エンツォは、V12気筒エンジンの設計を、158を開発したジョアキーノ・コロンボに委ねた。戦争中のアルファロメオはファシスト政権に協力的だったため、コロンボもファシスト党の党員となっており、その立場は微妙で、今後どういう処遇になるのかはっきりしてなかった。そのため、アルファロメオに在籍しながらもフェラーリのためのエンジンの設計を始めたのだ。新しいフェラーリは、12気筒のうちの1気筒あたりの排気量から取られた『125』という、ちょっとしゃれた名称だった。
しかし、その年の11月になってコロンボのアルファロメオでの立場は泰然であることが保証された。しかもレース活動の再開が決定されて、そこへの配属が決まったのだった。エンツォは困惑したが、代わりに期限付きでアルファロメオの航空部門にいたジュゼッペ・ブッソがフェラーリに派遣された。続いて1946年10月には、やはり飛行機エンジンの技術者だったアウレリオ・ランプレディを雇い入れた。しかし、ランプレディは他のフェラーリの技術者とはウマが合わなかったようで、度々の衝突の上、半年足らずで辞めてしまった。それでも125は完成した。
1947年5月10日のピアチェンツァのレースに、新生フェラーリともいえる125はエントリーされた。ドライバーはフランク・コルテーゼ。予選でトップを記録し、本番でも1位を走っていたが燃料系の故障でリタイアした。ともあれ、ゼロから開発された新しいフェラーリがレースでデビューし、高いポテンシャルを示したのだ。そして2週間後の5月25日に、ローマのカラカラで催されたレースに再びコルテーゼの操縦で125は走り、楽々と優勝した。小さな一歩だったかもしれないが、これがフェラーリの新たな栄光の始まりだった。時にエンツォ・フェラーリは49歳の新しい出発だった。
百戦錬磨のエンツォは、すでにたくさんの栄光を手中にしていた。だから、スクーデリア・フェラーリの歴史を祝うのなら1929年からでもいいだろうし、1940年から数えてもいいように私には思われた。けれどもフェラーリは、このささやかな勝利の日である”1947年5月25日”を、自らの出発の日としたのだ。
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