Così così(コジコジ)とはイタリア語で「まあまあ」のこと。この国の人々がよく口にする表現である。毎日のなかで出会ったもの・シアワセに感じたもの・マジメに考えたことを、在住25年の筆者の視点で綴ってゆく。
創業家に生まれて
かつてフィアットの名誉会長を務めた故ジョヴァンニ・アニェッリが2021年3月12日、生誕100年を迎えた。
生前“ミスター・フィアット”として財界のみならず、イタリアを代表する人物の一人として知られていただけに、国内主要メディアは回顧記事や特集を軒並み配信した。
アニェッリは1921年トリノで生まれた。祖父はフィアットの創業メンバーの一員であったジョヴァンニ・アニェッリ(1世)である。
後年イタリアのメディアは、同名の祖父と区別するため愛称の「ジャンニ」を用いたり、大学の法学部出身であったことから、イタリアでその卒業者への一般的呼称である「アヴォッカート」と呼ぶようになった。
14歳のとき、次期社長に目されてきた父エドアルドが水上機で事故死。母ヴィルジニアも1945年、アニェッリが24歳のとき自動車事故でこの世を去った。同年には祖父ジョヴァンニ1世も79歳で死去している。
そうした逆境のなかアニェッリはフィアットを、のちに名経営者として名を残すヴィットリオ・ヴァレッタに託し、自身はサッカーチーム「ユベントス」の運営を引き受けた。続いて、フィアットの筆頭株主である一族の資産管理会社で代表に就任する。
傍らで、ジャクリーン・ケネディや女優アニタ・エクバーグなど世界のセレブリティたちと華やかな交際を繰り返し、イタリアを象徴するプレイボーイとして名を馳せた。
1966年、ヴァレッタの後継としてフィアット会長に45歳で就任すると、ヴァレッタがレールを敷いた経営多角化・国際化を進めた。1969年にはフェラーリの株式50%も取得している。
イタリア国内で労働運動が盛り上がりをみせると、的確な番頭格の人選で組合交渉を巧みに乗り越えた。1996年には名誉会長となり、2000年には米国ゼネラルモーターズ(GM)との資本業務提携も実現した。
“全裸ジャンプ”と晩年
残念ながら、1996年に筆者がイタリアに住み始めた頃、すでにアニェッリは高齢で、ショーなどに姿を現す機会は少なく、直接彼を目にすることはできなかった。
しかし、意外なかたちで彼の名前と接するうち、イタリア社会における独特のポジショニングが判明してきた。渡伊間もない頃、単なる一自動車企業のトップでないことを最初に知ったのは、外国人大学での授業だった。
あるカンツォーネ(歌謡曲)が教材で、「腕時計をワイシャツの袖の上に巻いて」といった歌詞だった。袖をめくる時間も惜しむ多忙なビジネスマンを描写したそれは、誰あろうアニェッリがモデルだったのである。後日実際に、彼がそのとおりに時計を装着している写真を確認した。
テレビでは、一定年齢以上のイタリア財界人の例にもれず、アニェッリがフランス語を流暢に話す姿が放映されていた。当時すでに80歳近くだったが、アニェッリの休暇は、女性週刊誌で毎夏格好の話題だった。
ある日、大学図書館の雑誌閲覧コーナーで、イタリアの著名週刊誌の表紙に目が止まった。彼が家族とヨットでヴァカンスを楽しむ様子を望遠レンズで狙ったものだった。こともあろうに、彼がデッキから全裸で海中へと飛び込む写真だった。後年わかったことだが、同様の全裸写真は以前にも存在した。それに関して少し前、フランスのベテラン自動車歴史家が筆者に興味深い話を聞かせてくれた。
2021年1月に発足したステランティス以前にも、成立・不成立を問わずフィアットはプジョーと協力関係を模索したことが何度もあった。
歴史家によると「どちらも創業家が強いイニシアティヴをもつ会社だが、社風が違いすぎることがたびたび取り沙汰された。そうしたとき、お固いプジョー家と対比するための好例として、アニェッリの全裸写真がフランスの雑誌を飾ったのだ」という。
ところで、前述のように早くして両親を失った本人だが、筆者が知る間にも悲劇は続いた。一時は自身の後継と期待していた人物が次々と、彼より先に世を去ったのだ。
1997年12月、甥のジョヴァンニ=アルベルト・アニェッリが33歳で病死。そのとき新聞雑誌スタンドには、家族全員の歴史を網羅した別冊特集が並んだ。2000年には長男エドアルド(2世)が橋梁からの転落死を遂げた。
最晩年はビジネスも不運だった。1996年に抜擢したチェーザレ・ロミティ会長による金融財務強化路線は、本業である自動車の開発力低下を招いた。前述のGMとの提携からも、めざましい相乗効果が生まれなかった。
優秀な人材が流出し商品力が低下したところに、他の欧州ブランドや日本勢の猛攻を受け、市場シェアは一気に低下した。解雇も相次いだ。そうしたなかイタリアの伝説で「魔女が、悪さをする子どもに炭を届ける」とされる日には、工場従業員たちがアニェッリ邸に炭を持参するパフォーマンスも行われた。
そして2003年3月、アニェッリは81歳の生涯を閉じた。家族の霊廟まで棺を載せた霊柩車はフィアットのワンボックス・バン「ウリッセ」だった。
イーロン・マスクとの違い
没後もフィアットゆかりの地トリノの人々から、アニェッリにまつわる話をたびたび聞いた。ある古い市民によると、高速道路料金所では、アニェッリが運転していると収受員は料金を受け取らなかったいう。
参考までに、アニェッリは自ら操縦することを好んだ。フィアット歴史資料館には「私は運転手に任せたことはない。いつも自分で操縦する。馬車時代、『世間には御者台を好む人間と、客席を好む人間がいる』と言われていたが、私は御者台を選ぶ」という彼の語録が紹介されている。
いっぽう、ある食堂の店主は、「仮に彼が今、目の前を通ったら、私は帽子を脱いで頭を下げるよ」とジェスチャーとともに語った。驚いたことに、彼は過去にフィアット工場を解雇された身であった。それでもアニェッリに対しては「パドローネ(パトロン)」として深い敬意の念を抱くという。人々にとってアニェッリは20世紀の企業トップというよりも、中世の封建制度下の領主に近いものだったといえる。
ところで今日、自動車界のヒーローといえばイーロン・マスクであろう。ただしマスクとアニェッリでは根本的な違いがある。
マスクのキャラクターに引かれてテスラ車を購入する人がいるいっぽうで、アニェッリの印象は本国イタリアでも商品イメージを向上させる役割は果たさなかった。
別の視点でいえば、メディアを意識して、ときには工場で踊ってみせるマスクのようなパフォーマンスをアニェッリが見せたことはなかった。彼の生き方そのものがカリスマであり、クルマはクルマで勝負した。商品を売るためなどに大衆や株主に媚など売らなかったのである。
トリノのリンゴット旧工場跡にある絵画館には、今もアニェッリがコレクションした美術品が展示されている。数は膨大なものではないが、逆に生前における本人の審美眼の確かさを物語っている。加えていえば、彼の若き日の着こなしは今日も評価が高い。イタリアを代表する紳士モード見本市「ピッティ・イマージネ・ウオモ」では、たびたび服飾ブランドが「アニェッリ・スタイル」などとして、彼のイメージを投影したコレクションを展開するのががみられる。
アニェッリのような人物は、おそらく二度と自動車界に現れないであろう。そう思うと、彼の人生のたとえ一部でもリアルタイムで追えた自身を、ある種幸運に思うのである。
文 大矢アキオ Akio Lorenzo OYA
写真 Akio Lorenzo OYA/FIAT/BMW Classic/Garage Italia Customs
この記事を書いた人
イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを学び、大学院で芸術学を修める。1996年からシエナ在住。語学テキストやデザイン誌等に執筆活動を展開。NHK「ラジオ深夜便」の現地リポーターも今日まで21年にわたり務めている。著書・訳書多数。近著は『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)。