二代目の手によって営業再開した峠の茶屋
最近、 急速に数を減らしているのが峠の茶屋である。新トンネルの開通で御坂峠の天下茶屋も 一時廃業したが、約10年の時を経て復活。太宰治を愛する文学ファンや富士の眺めを楽しむ人で今も賑わっている。
太宰治が『富嶽百景』のなかで、風呂屋のペンキ画のようだとこき下ろしたのが、御坂峠からの富士の眺めである。
『まんなかに富士があって、その下に河口湖……(中略) 。近景の山々がひっそり蹲(うずくま)って湖を抱きかかえるようにしている。私は、ひとめ見て、狼狽(ろうばい)し、顔を赤らめた。……(中略)どうにも註文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった』
甲府盆地と河口湖の間は、現在、国道137号で結ばれている。長いトンネルで御坂山の中腹をまっすぐに抜けていく快適な道だ。
中央自動車道の一宮御坂ICから南に向かうと、その新御坂トンネル手前で左へそれる細い道がある。これが御坂峠に続く国道137号の旧道(県道708号)で、くねくねと曲がりくねった山道を登り切ると、コンクリートの苔むした御坂隧道の入口が現れる。そして、この薄暗く、勾配があって先を見通せない全長396mの古いトンネルを抜けると、 「いきなり!」といった感じで富士の姿が目に飛び込んでくる。
甲府盆地側は手前の山にさえぎられて富士の姿はほとんど拝めない。それだけに、この出会いには一瞬息を呑むほど感動する。
甲斐国と相模国を結ぶ鎌倉往還最大の難所、御坂峠に自動車道のトンネルができたのは昭和6年(1931年)のことだった。以来、御坂山の鞍部を越える標高1520mの旧峠に代わり、御坂隧道の河口湖側出口(標高1300m)が御坂峠と呼ばれてきた。
鎌倉往還というのは非常に古い道で、「神坂(みさか)」に由来する名前からも想像が付くように、日本武尊が東征の際、ここを越えたという伝説も残っている。また、御坂隧道ができた時に付けられた国道番号は1桁の「8」というもの。極東でソ連と対峙していた戦前の日本にとって、首都圏から日本海側へ抜ける途中にある御坂峠は、今からは想像できないほど重要なルートだったのだ。
ところが、昭和42年(1967年)に御坂山の標高1000m付近を一直線に貫く有料道路のトンネルが完成すると、峠を行き来するクルマは一気に減少する。
「猫一匹通らんようになってしまったんですよ、ハハハ……」
こう話すのは峠に建つ天下茶屋の二代目社長、外川満さんである。
先代の父が御坂峠に茶屋を開いたのは、隧道開通から3年目の昭和9年のこと。マイカーとか、ドライブなどという言葉さえ存在しない時代だったが、甲府と富士吉田の間には路線バスが毎日10便近く運行され、おかげで店もけっこう繁盛していたらしい。
「昔は未舗装の悪路でしたから、クルマも、人も、必ずここでひと休みしなければならなかったんです。路線バスも20分くらいは停車していたと思いますよ」
天下茶屋は新しいトンネルの開通にともなって廃業。現在の店はその10年ほど後に二代目の手で再開されたものだ。