海から塩を運ぶ道は内陸の人々の生命線だった
有史以前から、人や獣は移動を繰り返し、道は自然発生的に形作られてきた。その典型が、いわゆる塩の道である。山国信州と日本海を結ぶ千国街道。雨の日も風の日も塩を運び続けてきた道には、先人たちの知恵が秘められていた。
日本の幹線道路のうち、海岸と内陸を結ぶルートの大半は『塩の道』が起源だといわれる。
海から陸に上がって進化してきた人間にとって、生きていく上で塩は欠かせない。ところが、乾燥した大陸などと違い、雨の多い日本列島では岩塩などの『陸塩』がほとんど採れない。そのため、内陸で暮らす人も『海塩』を手に入れなければならず、これが道を作り出す原動力となってきたのだ。
そんな塩の道のなかでも有名なのが、信州の城下町・松本から日本海沿いの糸魚川まで続く千国街道である。
永禄10年(1567年)、甲斐の武田信玄は、今川氏(駿河国)と北条氏(相模国)によって太平洋側からの『塩留め(=経済封鎖)』を受ける。このため武田の領民は深刻な塩不足に苦しむのだが、それに憤慨したのが義を重んじる越後の上杉謙信だった。信玄とは宿敵の関係にありながら、謙信は自分の支配する千国街道を通って武田領内に塩が運ばれることを許し、おかげで甲斐や信濃の人々は塩不足から解放されたという。『敵に塩を送る』という諺はこんな出来事に由来している。
松本から現代の塩の道、国道147号を北に向かうと、しばらくは明るく、広々とした平坦地が続く。安曇野である。やがて信濃大町をすぎると国道番号は147号から148号に切り替わり、信濃川水系と姫川水系を隔てる小さな分水嶺、佐野坂峠を越える。そして、神々しいほど美しい北アルプスの山なみを目の前にしながら白馬村を抜け、さらに北上を続けると長野県西北端の小谷(おたり)村。道の両側は深く切り立ったV字谷となり、道は日本海に下っているはずなのに、逆に山奥へと分け入っているような気分になる。
ここまで国道やJR大糸線と寄り添うように進んできた千国街道は姫川の谷筋から大きくそれ、稜線をたどる山越えの道となる。