不毛の台地を水田に変えた石組みの通水橋
緑川流域にこれほど多くの石橋が作られた理由はおもに2つある。まず熊本城の築城に際して、高度な石組みの技術が伝えられたこと。さらに、太古の阿蘇の大噴火により、切り出しやすい溶結凝灰岩がこの地には大量に存在していたのだ。ただし、その陰に石橋作りにかける地域住民の熱意があったことも忘れてはならない。
江戸時代に作られた石橋の大半は、地元の庄屋が私財を投じたり、資金集めをして、肥後石工の指揮のもと、多くの農民たちが建設に従事した。つまり公共事業ではなく民間事業である。
その代表例が、幕末の嘉永7年(1854年)、五老ヶ滝川の谷に渡された通潤橋。石橋の内部には3本の導水管が通り、川の南から水源のない北側台地へ、サイホンの原理を応用して灌漑用水を送る通水橋である。
この事業を立案したのは矢部郷(山都町矢部地区)の惣庄屋・布田保之助。これに霊台橋も手がけた名石工、宇市・丈八・勘平の3兄弟が協力し、近郷の農民たちが総出で作業に加わった。1年8ヶ月かけて完成した通潤橋の水は、いまもなお150ヘクタールほどの水田を潤しているという。
ところで、加藤清正の築いた熊本城がその真価を発揮したのは、築城から270年もたった西南戦争のときだった。西郷隆盛率いる反乱軍は堅牢な城壁を攻め破ることができず、新政府の援軍により田原坂で壊滅。そして、西郷の死をきっかけに、日本各地で燃えさかっていた反政府運動は徐々になりをひそめていく。
すぐれた戦略眼をもつ清正公も、自分の築いた石垣が近代国家の安定に貢献したり、田畑を潤す通水橋を生んだり、はたまた、石橋の上をエンジン付きの乗り物が行き交う時代になろうとは思いも寄らなかっただろう。