開通まで80年を要した日高山脈越えの峠道
「いまじゃ道路改良が進んだし、道東自動車道も開通したから、ずいぶん楽になったけど、昔の日勝峠越えはホントに大変だったよ。特に冬場は危ないから、日高町まで行くのに60 ㎞も遠回りして、標高が400mほど低い狩勝峠を抜けていくこともあったんだ」
清水町のドライブインのご主人はこんな話を聞かせてくれた。
そもそも江戸時代まで、北海道には人や物が自由に行き来できる道がなかったため、未開地の開拓には、まず道を切り拓くことが不可欠だった。そんな状況のなか、開発の成果が上がらないことに業を煮やした明治政府が導入したのが、囚人による道路の建設である。旭川や網走、釧路といった未開の原野に集治館(刑務所)が建てられ、囚人たちを酷使して道路が作られていったのだ。
こうした『囚人道路』のなかでも特に悪名高かったのが、大雪山の北を抜けて旭川と網走を結ぶ中央横断道路、現在の国道333号・北見峠越えである。明治24 年(1891年)、5月から年末までの突貫工事で開削された160㎞の道には、1000人あまりの囚人が動員され、そのうち212人が命を落としたと伝わる。
一方、道庁の置かれた札幌から道東エリアへ向かう道路の建設はこれよりさらに遅れる。大きな障害となっていたのは、北海道の中央部から南の襟裳岬へと連なる日高山脈の険しい山なみだった。
南北150㎞にわたって連なる山並みの北端に、狩勝峠の道が開通したのは昭和6年(1931年)のこと。そして、昭和30年代には狩勝峠の20㎞ほど南で道路建設がはじまり、昭和40年(1965年)になってようやく日高・十勝間の道路が全面開通する。
日高山脈を越える道路の建設調査が始まったのは明治14年(1881年)。それから日勝峠の開通までには80年あまりの歳月を要したことになる。
現在も日勝峠より南で日高山脈を越える道は、襟裳岬の北50㎞どのところを抜けていく国道236号・野塚トンネルのみ。また、海岸線を襟裳岬に向かう国道336号の建設は、山が波打ち際まで迫る険しい地形に阻まれ、「道路に黄金を敷きつめるほど費用がかかる難工事」だったといわれる。広尾町からえりも町までの約30㎞の区間が『黄金道路』と呼ばれるのは、このことに由来している。
日高山脈の主峰、標高2052mの幌尻岳はアイヌの言葉で「大きな(ポロ)」「山(シリ)」を意味する。この大いなる山塊は今も人やクルマの行き来を阻み続けているのである。