山里の産物を求め多くの人々が行き来した道
県道36号の大望峠を南に下りきったところにあるのが旧・鬼無里村である。この一風変わった地名に関して地元にはこんな伝説が残されている。
昔、天武天皇が信濃国への遷都を計画した時、使者たちが見い出したのが戸隠山麓の静かな盆地だった。ところが、土着の鬼たちは自分の棲み家を人間に荒らされるのを嫌い、一夜にして大きな山を築いてしまう。これに怒った天皇は鬼を残らず退治。以来、この地は「鬼のいない里」 、鬼無里と呼ばれるようになったという。
こんな山奥に都を遷すなど、誰もが荒唐無稽な作り話と思うだろう。ところが、鬼無里にあるふたつの集落、西京には春日神社、東京には加茂神社が古くから祀られている。ちなみに本家の春日大社と賀茂神社はそれぞれ平城京と平安京を鎮護する神社である。さらに集落の北にそびえる一夜山も、きわめて端正な円錐形をしていて、言われてみれば作り物のように見えなくもない……。
何とも不思議な山里である。
「古くから鬼無里の人々の生活を支えてきたのは麻の栽培でした。麻の繊維から紡ぎ出される丈夫な糸は、畳作りから軍需品までさまざまな分野で使われ、とても貴重なものだったんですよ」
こんな話を聞かせてくれたのは、鬼無里ふるさと資料館に勤める古畑敦さんである。
古畑さんによると、戦後まもなく麻の栽培が禁止されるまで、鬼無里の農家では冬の農閑期の間、家族総出で麻糸作りを行なっていたという。寒ざらしという手法で作られる上質な畳糸は、現在の価値にすると一束およそ50万円という高値が付いた。しかも農業のほかに林業や養蚕といった副業も盛んだったため、現金収入は思いのほか多かったというのだ。
そんな山里の経済的な豊かさを如実に物語っているのが、資料館に展示されている豪華絢爛な祭り屋台である。一本の丸太、一枚の板から立体的に削り出された精緻な「一木彫り」は、越後の宮大工、北村喜代松とその弟子たちの手によるもので、現存する4台の屋台は江戸時代末期から明治初期にかけて制作されている。よほどの経済力がなければ、これほど腕のいい宮大工を遠方から呼ぶことなどできなかったはずだ。
古くから鬼無里には、東西に延びる鬼無里街道のほか、現在の県道36号がたどる戸隠往来、さらには南へ延びる高府往来や松代往来など、幾筋もの山道が交差していた。ここを行き交うのは山里の産物を求める人々。月に9回開かれる交易市場「鬼無里の九斎市」が最初に開催されたのは今から300年以上も前のことだという。
かつての鬼無里街道、現在の国道406号を西に向かって走っていくと、白馬村との境にある白沢峠のトンネルを抜けたところで、もう一度、感動的な眺めと出会うことができる。大望峠から遠望していた北アルプスの山並みが、いきなり目の前にそびえ立つのだ。