紀州鉱山の索道も風伝峠を越えていた
風伝峠の西側登り口、紀和町丸山地区には国内有数の美しい棚田が広がっている。
地元の言い伝えによると、ここに水田が拓かれ始めたのは平安時代の末頃。武家の勃興により没落の道をたどっていた藤原家の一族が入植し、こつこつと開墾していったという。
戦国末期、太閤検地の際には2240枚を数えたという丸山千枚田だが、昭和の高度成長期になると若者たちが都会に出てゆき一気に荒廃し、一時は520枚にまで数を減らしてしまった。その荒れた棚田を見事に蘇らせたのが、丸山千枚田保存会の初代会長・北富士夫さんである。町の支援を受け、平成5年(1993年)から始まった復田作業により、現在、棚田の数は千枚田の名に恥じない1340枚にまで回復している。
北さんによると、丸山千枚田の間に延びる小径も熊野古道の枝道で、奈良県と三重県に挟まれた和歌山県の飛び地、北山村まで続いているという。北山村は古くから林業の盛んな土地で、山から伐り出した材木は北山川と熊野川を利用して河口の新宮まで運び出されていた。その結びつきの強さから、北山村は明治維新の際に奈良県にも、三重県に組み入れられることもよしとせず、和歌山県の飛び地として残ったとされる。
北さんの子どもの頃の記憶で印象に残っていると話していたのが、大きな櫂かいを担いで黙々と棚田の脇を歩いてゆく筏いかだし師の姿だという。材木を筏に組んで急流を下る筏師は、当時の紀伊山中では粋で、しかも稼ぎのいい職業だった。
「戦前から風伝峠にはバスが走っていましたから、わざわざ歩いて北山村まで帰る必要なんてなかったんですよ。おそらくは、せっかく稼いだ金を博打か女遊びで使い果たし、バス賃までなくしてしまったんでしょうなぁ」
こう言って北さんは楽しそうに笑っていた。新宮と北山村の間は直線距離で約20km。険しい山越えの道ではあったが、当時の人には決して歩いて帰れない道のりではなかったのだろう。
風伝峠に自動車道ができた少しあと、昭和9年(1934年)に紀和町では紀州鉱山が操業を開始した。ただし、ここで採れた銅鉱石はトラックではなく、まず索道で七里ヶ浜まで送られ、そこから鉄道と船で精錬所に運び込まれていった。当時、風伝峠を空中で越えていた索道は今はもう跡形もなく消えてしまっているが、それはスキー場で見かける高速クワッドリフトのようなものだったらしい。
まるで細かなひだを重ねるように、果てしなく広がる紀伊半島の山並み。その少しでも低いところをめがけて、風や雲は流れ、人や物も盛んに行き来していたのである。騒々しい鉱山の索道を見上げながら、新宮の歓楽街ですっかんぴんになった筏師の歩いていた風伝峠は、立派な国道トンネルが貫通した今、まるで昔の参詣路のような静けさを取り戻している。