LE VOLANT モデルカー俱楽部

ビッグスリーに、既存プラモメーカーに、ビートルが喰らいつく!そして相次ぐ移籍劇とは…【アメリカンカープラモ・クロニクル】第20回

1964年 IMCビートル、ドラッグストリップを走る

まことに発展的な独立劇だったとはいえ、1963年にジョージ・トテフという大黒柱を失ったamtは、続けてバド・アンダーソンというやり手を失うことになった。

【画像51枚】永遠のスタンダード、IMCのビートルと同年型アメリカ車のキットを見る!

amtの魅力あふれるスポークス・パーソンとして、ピーターソン・パブリッシングの「ロッド&カスタム」「カー・クラフト」といった人気の雑誌に連載コラムを持ち、アメリカンカープラモ関係者でただひとり街のニュース・スタンドでちょくちょく顔写真を見かける男だったミスター・キャット(Mr. KAT)ことバド・アンダーソン――彼の電撃的な移籍劇を仕掛けた会社はインダストロ・モーティブ・コーポレーション(IMC)といい、本業は射出成型プラスチックによる自動車アクセサリーから台所のバターケースまでを幅ひろく手掛けつつ、いよいよ飛ぶ鳥を落とす勢いのホビー業界に新たな地歩を築こうとする野心的な会社だった。

当時「KAT from KIT city」というたいへん語感のいいキャッチコピーをひねり出して自社宣伝部から生まれた優秀なピッチマン(自社製品を積極的に売り込むプロフェッショナル)をいっそう盛り立てようとしていたamtは、急遽ミスター・キャットを「中の人などいない」純然たるマスコット・キャラクターに仕立て上げる必要に迫られた。あの赤いブレザーを着て人当たりよく微笑むカートゥーン・スタイルの首長猫は、バド・アンダーソンの退職後から展開されたマスコット・キャラクターだった。
バド・アンダーソンを製品プロデューサーに迎えたIMCは1964年、3つのキットを市場に送り出した。ひとつはジム・クラークとダン・ガーニーのハンドリングで1963年のインディアナポリス500マイル・レースを戦ったロータス29フォード、もうひとつはフォード・マスタングIIコンセプトカー、そして史上ふたつめのオーセンティック・スケールモデル化となるきわめて意欲的なフォルクスワーゲン・ビートルだった。どちらかといえばそのテーマの選定に妙のある前者ふたつに較べ、IMCのフォルクスワーゲンは注目に値する盛り込みをふんだんに含んでいた。

実車のトレンドを敏感に反映させたキット内容
バド・アンダーソンの古巣の流儀にしたがっていえば、フォルクスワーゲンはファクトリーストックとAA/アルタード・ドラッグ・マシンの2イン1仕様で、いわゆる「カスタム」をもはや含んでいなかった。あくまで奇抜な外見を提供することに重きのあったカスタムという選択肢は、じつのところ1964年頃にはユーザーからはっきりと飽きられつつあった。原因は諸説あるも、アメリカ全土でドラッグ・レーシングをはじめとするさまざまなレーシング・コンペティションが組織化・多様化を遂げ、無数のヒーローとそのマシンを生み出すようになったことがもっとも大きな理由であろうと思われた。

誰よりもそうした市場の空気に敏感なバド・アンダーソンは、当時すでにアメリカの風景にすっかり溶け込んでいたフォルクスワーゲン・ビートルをテーマに、先行するパイロのキットとはまったく違うワンピース・ボディー、ヒンジによってすべて開閉可能な前後フード・左右ドア、透明化されたヘッドランプ、ステアリング可能なフロントアクスルを盛り込んだうえ、チューブラー・フレームを含んできわめて説得力の高いドラッグ・セットアップを可能にするシャシー構造と、ブロワー付き426ヘミ・エンジン(もちろんストック用のフラット4エンジンも)を加えてキットの遊びの幅を大きく拡大した。
ドラッグ・レーシングの観点から見たフォルクスワーゲン・ビートルというのは一見奇妙なチョイスでもあった。実車でもamtダブルキットのラインナップでもその総合的なバランスの良さで抜きん出た人気を誇ったフィアット・クーペが、その稀少性からアメリカでは思うようには手に入らず、少なからぬ変わり者がサイズやスタイルの似たフォルクスワーゲン・ビートルに目をつけ、IMCのビートルと同じようなAA/アルタード・セットアップを実践した。

しかしドラッグ・ストリップでのビートルはそのあまりに丸いルーフから加速時にリアが浮き上がってしまう現象(エアロダイナミック・リフト)を頻発、これに手を焼いた実車ビルダーがこの症状を解消しようとリアボディーを大きく切り欠いたり蜂の巣のように穴だらけにしたりしはじめると、好奇心旺盛な模型ビルダーが今度はIMCのビートルに同様の「応急手術」を施して遊びはじめるという状況が一部で生じた。

わが国のユニオンから再販されたこともあり、カーモデラーに長らく親しまれたIMCのビートル。同社はバド・アンダーソンという当時随一の著名人をブレインに迎えながら、彼の顔や名を客寄せにひけらかすようなことをほとんどしていない。IMCが欲したのはあくまで彼の卓越した知見だった。ホビー業界への参入にあたって同社のシリアスな姿勢が窺える。

これはバド・アンダーソンの実車・模型双方における深い理解とアイデアがもたらした相互参照の好例で、ひたすら「フォルクスワーゲン公式モデル」の御旗を振りかざすばかりだった最初のフォルクスワーゲン・ビートルのキット=パイロ・プラスチックスのものでは決して起こり得なかった現象だった。
1959年というきわめて早い時期にフォルクスワーゲン公式のライセンスを取り付けて、メカニックのフィギュア2体付きで展開されていたパイロ・プラスチックスのビートルは、多少おおらかながらフラット4エンジンの再現といった先駆性を示しつつ、そのあいまいなスケール、割高なモーターライズの展開、バラバラのマルチピース・ボディーといった旧弊な点が響いて大ヒットには到らず、ユーザーの心理にもうひとつそぐわない発売後のバリエーション展開(ジョリーまたはスピアッジーナと呼ばれるタイプのビーチ・バギーなど)などもたたって、本格的なビートル愛好家にはかえって渇望をうえつける状況を招いてしまい、パイロ側も雑誌広告に大幅な割引チケットをつけるなどして販売に苦慮した様子がうかがえた。

バド・アンダーソンはこうした風向きを的確に読み取って、遊び代(しろ)が桁違いに大きい1/25スケールの正統派スケールモデルをIMCのもとで現実のものとしたわけだが、結果IMCビートルは当初の目論見をも大きく超えるロングセラーとなり、IMCという会社がなくなってしまってもなおファンに求められ存在をおびやかされることのないゴールデン・スタンダードとして長く愛された。

ビートルは1960年代も後半になってからようやくレベルが1/25スケールのキットを発売することになるが、実車と模型の相互フィードバックに満ちた蜜月期は完全にIMCビートル一色に染まっていた。

よりリアルに、よりレーシーに
フォルクスワーゲン・ビートルにまではっきりと見て取れるようになる市場のレーシング・テーマへの急速な傾倒は、バド・アンダーソンやジョージ・トテフが後にしたamtはもちろん、ジョーハンにも強い影響をおよぼした。ジョーハンは1964年、ダッジ・ポラーラとプリマス・フューリーにただデカールを付属させるにとどまらない、かなり大掛かりな(そして誠実な)スーパーストック・ドラッグ・レーサーのセットアップを盛り込んだ。

それまでのジョーハンといえば、過剰に熱心なファンのあいだではボディーやトリムの仕上がりにamt以上の冴えわたった切れ味を見せつつ、エンジン・シャシー・インテリアといった部分に後れを取ることの多いメーカーと目されていたが、この1964年のダッジ/プリマスBボディーのキットをもって、こうしたネガティブなイメージの刷新に成功した。

箱絵にも自信たっぷりに描かれた426マックスウェッジ・エンジンのパーツは過去のいかなるキットよりもはるかに精密に、本物そっくりに仕上がっていた。エンジン・フード下の組み上がりはまさに圧巻で、実際キットを手に入れて組み上げたファンを心底うっとりさせた。

もちろんアニュアルキットであることに由来する簡素化された要素、あるいはジョーハンのレースの現場に対するリサーチの到らなさを感じさせる箇所(たとえばスーパーストックの現場で安定したトルクフライト・トランスミッションが多用される中、キットには生まれたてのマニュアルA833しか用意がないなど)も散見されたが、1964年のジョーハンは組み上がりの素晴らしさがそうした細かい話の存在を圧倒した。
気がつけばアメリカのホビー市場ののどかな時代は完全に終わっていた。盛り上がるドラッグ・レーシングやストックカー・レーシングの舞台には人ならざる圧倒的強者――すなわち強力無比な新エンジンがあらわれ、それらを求めるアメリカ大衆の、とくに若者の嗜好は、実車と同じように(むしろ実車以上に)アメリカンカープラモへと向かった。「なんとなくエンジンのようなもの」にはもはや誰も見向きせず、現実で猛威を振るう426マックスウェッジ/ヘミ、時代遅れの409より最新の427ビッグブロック、フォード秘蔵のSOHC427、こうしたエンジンの忠実なレプリカこそが強く求められるようになった。

かつて「おまけ」と呼ばれたオプショナル・セットアップは、著名なカスタマイジング・コンサルタントが名前を貸してちょっと気の利いたフロントマスクを思いつけばよいという手軽な仕事ではなくなり、「より力強く走るために、ここはこうなっていなくてはならない」という目配りがどこまでキットに行き届いているかが問題にされはじめた。西海岸のエド・ロスはともかく、デトロイト寄りのカスタマイザーたちが模型の世界で今後の活路をひらくには「よりクレイジーなお手本」になるしかなかった。

外見だけのプロモーショナルモデルは、フォード・マスタングの颯爽とした登場がひととき追い風になったものの、ゆっくりとだが確実に衰微しはじめた。車の外見は、デトロイトの老爺がもったいつけて語る典雅な暮らしの予感などではなく、より直截な、フードの下に秘められたパワーを的確に表現するシャープネスこそが最重要となり、怒濤のモデルチェンジ・ラッシュがはじまった。

それは結果として模型メーカーの手許に使いどころを失った古いアニュアルキット金型の山をつくり上げることにつながっていった。新しい金型は彫らねばならず、古い金型は眠らせておくわけにいかず、このいずれにも対処を余儀なくされるのが模型ビジネスの苦しい宿命だった。

翌1965年から1966年にかけては、アメリカンカープラモ市場が初めて経験するほど複雑で、ハンドリングのむずかしい年回りとなった。

おことわり:今回ジョーハンの’64ダッジ/プリマスについて、写真にて詳しくご紹介できないことをここにお詫び申し上げたい。どちらのキットも中古市場では290ドル〜380ドルほどの高値をつけるうえ、めったに出回ることがない。運良く入手かなうことがあれば、忘れた頃に本連載でご紹介することもあろうと思うので、ぜひご期待いただきたい。

photo:服部佳洋、羽田 洋、畔蒜幸雄

この記事を書いた人

bantowblog

1972年生まれ。日曜著述家、Twitterベースのホビー番組「バントウスペース」ホスト。造語「アメリカンカープラモ」の言い出しっぺにして、その探求がライフワーク。

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