1993年〜1994年 フェイタル・クラッシュ

1994年、レベル-モノグラムはいってみればオルタネーターの深刻なトラブルに陥った。

電気系のトラブルによる失速と停止は、コントロールを失って演じるバリア・クラッシュよりはるかにみじめなものだ。

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1993年を迎えるまでのドライブはきわめて好調で、レベル-モノグラムはいわゆるデトロイト勢の退潮後、アメリカンカープラモ市場でエリミネーターの地位を揺るぎないものとするところまでたどり着いた。TVや映画がNASCARやNHRAの模様をつぶさに報じるほど、モノグラム主導の1/24スケール・モータースポーツ・キットは堅調な売れ行きを見せた。一方、レベルは1/25スケールにこだわるクラシックな「うるさ型」をうまく抑え、方向づける役割を担っていた。

合併はどちらかといえばモノグラム主導であり、プライベート・エクイティー・ファンドであるオデッセイ・パートナーズを率いる株主の筆頭にトム・ギャノンの名が挙がっていたこと、また集約可能な事業をすべてイリノイ州デスプレーンズにあるモノグラム第2工場へと集め、本社機能をやはりイリノイ州ノースブルックに統合したことからもそれはあきらかであった。

本連載第40回に詳しいとおり、モノグラム体制の充実に尽力したトム・ギャノンは、抑圧的なマテルとの手切れを機に、社の安泰を確信して第一線を退いていた。

レベル-モノグラムの駆動力そのものをモノグラムとすれば、姿勢を維持するのがレベルの役目――こうして両チームは、まるでフューエル・ドラッグスターの前輪と後輪のような距離とバランスを保ちながら、それぞれ性格を異にしたまま共存していた。輸出も比較的うまくいっていて、これまで攻略がむずかしいと考えられていたヨーロッパ市場にうまく根を張ったドイツ、イギリス、スイスの子会社が活躍していた。

プラモデルは、そのフォーマットに慣れたベテランですら、ときに「面倒くさい」と感じるものだ。組み立てや塗装のプロセスは、完成度の高い仕上がりを求めるほどユーザー自身の手が不可欠となり、それは苦労の末に至上の満足を得るための試練でもあった。しかし、選択肢が飽和するほど多様な時代を生きる若年層にとっては、それはもはや突出した魅力とは映らない。

「なんでそんなことしなきゃいけないの?」
「ゲームの方がいい」
「ダイキャスト・ミニカーの方がいい」
――この容赦のないジャッジが、日々レベル-モノグラムを悩ませていた。

レベル-モノグラムの体力を奪ったパワーモデラー
蛮勇ともとれるレベル-モノグラムのデジタル市場への介入は、400万ドルともいわれるホビー企業としては前代未聞の投資をともない、1991年に成立した新体制、ティモシー・コーリーCEOの指揮下で突然はじまった。アナログなプラモデル趣味とデジタルゲームの世界を架橋するインタラクティブ――パワーモデラー計画である。

通常のプラモデルに、CD-ROMが同梱されている。ユーザーがディスクをパソコンのスロットに挿入すると、立体的にレンダリングされたパーツ画像による組み立てガイドが展開される。ガイドのとおりキットをみごと組み上げたら、今度は3Dスピードウェイ上で展開されるゲームによってレースのスリルを味わうことができる。パワード・バイ・レベル-モノグラム、価格は70ドル。

CD-ROMを同梱した「POWER MODELER(パワーモデラー)」を用意することは叶わなかったが、ここではそのステッカーが貼付されたヘミ・クーダ(品番2943、ただしキット自体は専用品ではない)をお見せしよう。「パワーモデラー」シリーズでは、「バックロード・レーサーズ」のタイトルで’70マスタングが発売されており、そこにセットされたCD-ROMのゲームや組み立てガイドでは、同車のほか’67シェベル、’67マリブSS、そしてこの’71ヘミ・クーダが登場車種として設定されている。それを知らせるステッカーなのである。

日本で先行した『プラモ狂四郎』の世界である。しかし、その実態はそうした血湧き肉躍るファンタジーに遠く及ばないものだった。ユーザーはどちらかといえばモニターの方に首っ引きでいなければならず、またその画面に映し出される映像は技術的にきわめて未熟で、組立ガイドから肝心のレース画面までを極端なジャギーが覆っていた。また、当時はまだCD-ROMをあらかじめ搭載したパソコンは数が少なく、レベル-モノグラムのカスタマーサービスには「インストールできない」という苦情が相次いだ。

加えて70ドルという高単価が、商品のキャッチコピーを素直に信じられる年少者よりもその保護者を当惑させることになった。プラモデルなのか、ゲームなのか、はっきりしないものに70ドル。これもクレームの二の矢となってカスタマーサービスに降り注いだが、これは小売店の棚割に頭を悩ませるフロアスタッフからも容赦なく飛んできた。

パワーモデラーの売上げは5万セットにすら届かず、同社の計上した赤字は430万ドルに及んだ。この影響により、アメリカンカープラモの新規開発にかかる予算は大幅な縮小を余儀なくされた。

市場の需要をがっちりとつかみ、レベル-モノグラムの業績を一気に加速させるはずだったマシンはみるみるうちに停止した。スタート直後のストールはとてもみじめなものだった。

1994年、レベル-モノグラムはホールマーク・カード傘下のビニー&スミスに買収されることとなった。経営トップはCEOが交代し、これまでモノグラム主導であった路線の徹底した見直しが図られた。レベル-モノグラムにとってエンジンたるコア事業はやはりプラモデルであり、そこになにか問題があったわけでは決してなかった。ただ、もう一度そのエンジンをかけ直すには、ビニー&スミスにリードを借りたジャンプスタートがどうしても必要だった

レベル-モノグラムの事業再編は非常にテンポよく大胆にすすめられた。アメリカ国内事業においては在庫を35パーセント削減、経費は250万ドル削減、1,600万ドルに及んだ長期債務の借り換えを断行、営業チームは大手小売・ウォルマートへの働きかけを強め、レベル-モノグラムの棚割を従来の1.5倍(約12フィート)に拡大する約束を取り付けた。

海外展開においては成績トップのドイツ事業所をポーランドへと移転し、運営コストを大幅に削減した。有力なノンコア事業であった子供向け科学玩具・スキルクラフト事業はこのとき220万ドルで売却され、120万ドルあまりの利益が確保された。これらはメディアによって派手に書き立てられることもなく、あくまでレベル-モノグラム内部で粛々と進行したが、同社の10年規模の展望からモノグラムの名が消える流れはおおよそこの頃に決定づけられたとみてよい。

カギは未来から過去へ
1/24スケールというブルーオーシャンで新規開発に意欲的だったモノグラム・チームが失速すると、アメリカンカープラモ市場全体の「未来志向」は大きくしぼんだ。代わりに、1/25スケールの旧資産を活用しながらノスタルジア消費に寄り添うレベル・チームの路線が再評価され、市場全体が過去の資産を再利用する方向へと傾きはじめた。このときモノグラムの品質を支えていた現場スタッフの多くが、着慣れたクルージャケットを着替えることとなった。

1994年6月、モノグラム発祥の地であるシカゴの経済紙は、レベル-モノグラム社長にしてCEOを兼任することとなったセオドア・J・アイシャイドが株主に対し、前述したような業務再建計画の順調な推移を報告すると同時に、現有する金型資産のうちもっとも人気の高いキットの一部を、過去のオリジナルパッケージに収めて大々的に再販するプログラムを今後実施すると述べたことを報じた。

市場の期待が後ろ向きに方向づけられたことは、AMTアーテルにも少なからず影響を与えることになった。NASCARやNHRAのテーマのうち、モノグラムが刈り残した「落ち穂」を拾うことに労を割いていたAMTアーテルだったが、本連載第45回にて詳しく取り上げたレベルの’64フォード・サンダーボルトと似た展開がここに登場しはじめた。

1993年、時を同じくして登場した新金型キット、’66フォード・フェアレーン427、および’62シボレー・ベルエア409、このふたつのスーパーストック・マシンがそれに該当した。

デトロイトの意向を強く反映していたアニュアルキット最盛期、まだamtに在籍していた頃のジョージ・トテフが強い要請を出したにもかかわらず、キット化に結びつかなかった路線の2アイテムであった。

当時のアニュアルキットはエンジンらしきものが入っていればそれでよく、ヘッドランプのレンズはグリルごとメッキで覆われることが当たり前、足回りの機構は浮き彫りにメタルアクスルが貫通していればOK、正確な純レーサーを作ろうと思ったら努力義務はすべてビルダーにあるという時代から30年あまりの時間が経過していた。1963年に10歳だった男の子はこのとき40歳。

ノスタルジア消費と呼んでしまえば話はそれまでである。しかし、購買力のきわめて高いこの層を的確に刺激することができれば、デジタルとアナログのあいだに架けられた危うい橋を渡って本物の子供たちを迎えに行くよりはるかに確実な実入りが期待できる。

日進月歩の勢いでモンスター化するプロストック、ファニーカーに寄り添ったモノグラム路線に対し、クラシックで市販車に忠実なスーパーストック・テーマを新規開発してみせること自体が「反抗の狼煙」でもあった。現代テレビ屋にとってはいけすかない、鼻で嗤われるようなスローバック。しかしNHRAの創始者であるウォーリー・パークスならば「そうだ、それでいい」と笑みをみせたはずだ。

AMTアーテル、レベル中心となった再編レベル-モノグラムは、示し合わせたように同じパイを取りに向かいはじめた。

新しいスケール、新しいテーマにこだわる勢力は、かくしてジョージ・トテフ率いるリンドバーグ/クラフトハウスだけになってしまった。

 

※今回、AMTアーテル製1/25「1966フォード・フェアレーン427」、「ドン・ニコルソンズ’62ベルエア・スーパーストック」、amt(ラウンド2)製1/25「シボレー・ベルエアSSジョー・ガードナーズ・ノースウィンドA/Sレーシング・バージョン」、モノグラム製1/24「1971ヘミ・クーダ」、レベル製1/24「’71クーダ・ストリートマシーン」、同1/25「‘58クリスティーン・プリマス」(制作済み)の画像は、アメリカ車模型専門店FLEETWOOD(Tel.0774-32-1953)のご協力をいただき撮影しました。
※また、レベル製1/24「ラリー・マイナー・レーシング マクドナルド・オールズ・ファニーカー」の画像は、読者の夜桜ハイボールさんのご協力により撮影しました。
ありがとうございました。