小さな断片から自動車史の広大な世界を管見するこのコーナー、今回はレーシングカーを造ることに情熱を傾けたマセラティ兄弟と、そのスピリットを引き継いだ人たちについての思い出を語ろう。
冒険者たち
自動車は誕生するとすぐに競争が始まり、それが宿命となった。絶え間ない技術開発とそれを操るドライバーによる競争が不断に継続してきたのがモータースポーツで、その第一線に携わっている人々は、並外れたファイターに違いなく、現代の冒険者と言っていいだろう。
マセラティ兄弟もそんな冒険者だった。小さな町工場に過ぎなかったのに、巨額の開発費を投入した強大なライバルたちをしばしば打ち負かした。彼らは、自動車開発の天才であることはもちろんだが、超人的な努力家であり、ファイターであったことだろう。そうでなければ、長年にわたってドンキホーテのような戦いをライバルたちに挑めるはずがない。ヴァルツィ、カンパーリ、ヌヴォラーリなど当代一流のレーサーたちに支持され、多くの勝利がもたらされ、名声を確立した。
1938年にマセラティ兄弟は実業家オルシに経営権を譲り、10年という契約期間が過ぎると、マセラティから離脱した。
しかし、それからのマセラティ兄弟無きマセラティもまた、マセラティの名前に恥じないレース活動を継続したのだった。コロンボやマッシミーノに続いて、ジュリオ・アルフィエーリを設計者に擁した。A6から始まり、A6GCS、150S、200Si、300S、そして’57年の450Sまでのスポーツカーが世界中のレースで優勝を獲得したし、F1でも’57年にはチャンピオンとなった。
アルフィエーリは’59年には顧客の希望に応えてT60を開発した。T60は先端的なレーシングカーに見えたが、エンジンや足まわりなどは200Siを改良した熟成モデルで、比較的安い価格設定だった。ただし、4気筒2リッター・エンジンで最大限の性能を発揮するために軽量化を突き詰め、細い鋼管を鳥籠のように組み上げたフレームを採用した。T60に3リッターに拡大したエンジンを搭載したのがT61で、ロイド・”ラッキー”・キャスナーは、’59年12月のバハマのスピードウィークでキャロル・シェルビーにT61の操縦を委ねた。結果はリタイアだったが、そのポテンシャルに成功を確信したキャスナーはレース・チーム、カモラジを編成して、’60年のシーズンを戦った。
初戦のブエノスアイレスではダン・ガーニーが乗って予選2位を獲得したが、決勝ではリタイア。続くキューバGPでは、スターリング・モスが乗って優勝を遂げた。モスはニュルブルグリンクでもT61で優勝をもたらした。翌’61年にはキャスナー自身の操縦で、ニュルブルクリンクとルーアンで優勝を遂げた。キャスナーも冒険者と呼ばれるのに価する男だった。
その後もマセラティは顧客の注文によって、レーシングカーを開発したが、1965年のル・マンが最後のレースとなり、彼らの冒険は終焉を迎えた。