知られざるクルマ

【知られざるクルマ】Vol.19 ロードペーサー、ステーツマン・デ・ビル、三菱クライスラー……豪州生まれの “規格外な日本車” とそのベースたち

誰もが知る有名なメーカーが出していたのに、日本では知られていないクルマを紹介する連載、【知られざるクルマ】。今回も、まさにそのテーマにふさわしい内容でお送りしたい。テーマは、「1970年代に、日本車として販売された、豪州生まれの “規格外に大きな国産車” たち」。豪州での「本来の姿」とともに集めてみたので、ぜひご覧頂きたい。また、90年以降にオーストラリアから輸入された国産車も、記事末に「おまけ」で収録している。

【その1】13Bエンジンを載せた「マツダ・ロードペーサーAP」

■大型車の開発費を浮かせる秘策として誕生

1970年代初頭、トップ2メーカーのトヨタや日産では、すでに1Lクラスの小型車からV8を積んだ最高級車までを揃え、いわゆる「フルラインメーカー」と呼べる豊富な車種構成を整えていた。そんな中、3位以下のメーカーのいくつかは、その地位を虎視眈々と狙っていた。そのために、富裕層やショーファードリブン向け最高級車クラスへの参入も図られることになった。

しかし、それには膨大な投資が必要となる。さらに、見込まれる販売台数を考えると、大衆車のような開発費の回収は困難だった。そこで、マツダ・いすゞ・三菱の各社は、当時の日本車の基準では「規格外」に大きな車体を持つクルマを、オーストラリアから輸入することによって、最高級車を生み出すことを考えたのだった。

豪州ホールデンからパワートレーン以外を輸入し、日本で13B型REを載せた「マツダ・ロードペーサーAP」。日本では大柄だが、本国では「インターミディエート」と呼ばれる中型車に属した。

そんな、特異な成り立ちで生まれた豪州製大型高級車の中でも、1975年に発売された「マツダ・ロードペーサーAP」は、さらに独特な存在である。というのも、後述の車種がパワートレーンごと輸入したのに対し、ロードペーサーAPは、マツダお得意のロータリー・エンジン(RE)を搭載していたからだ。輸入されるベース車のエンジンは2.8〜5Lの直6やV8で十分にパワフルだったのに、マツダはあえて自社で最もパワーがあり、小型軽量な13B型を選んだ。たしかに、マツダのイメージリーダーたる13B型REは、654cc×2から135psを発生し、当時の日本車用エンジンとしては高性能だった。

本来はV8も収まるエンジンベイに、ちょこんと載せられたコンパクトな13B型RE。

しかし、最大トルクの発生域が4000rpmと高いこともあり、低速トルクの不足は如何ともし難かった。全長約4.9m・全幅約1.9m・車重1.5tオーバーの大きな車体には、さすがのREも役不足だったのである。

豪華な室内。横長メーターは初期型のみ。前席は、写真のセパレート仕様とベンチシート仕様が選べた。後者は6人乗り。

ロードペーサーAPは、デビュー当初はプレジデントの台数を抜くほどに売れたものの、パワー不足・燃費が悪いという評価を拭えず、さらにはオイルショックも追い打ちをかけ、その後の販売は終始低迷。1979年までの生産台数は、わずか約800台にとどまる。なお、販売価格は約370万円で、これはライバルのセンチュリーやプレジデントの一部グレードよりも高価で、ルーチェの最上位モデルの2倍以上だった。

■ベースは、GM系メーカー「ホールデン」の中型車「プレミア(HJ)」

ロードペーサーAPのベースは「HJ」世代の「プレミア」。写真は、HJ世代の前身となる「HQ」の下位版「ベルモント」である。

ロードペーサーAPのベースは、アメリカのGM(ゼネラルモーターズ)傘下「ホールデン」が生み出した「プレミア」だった。ホールデンは、日本では聞き慣れないメーカー名だが、創業は1856年と古く、自動車製造を1913年から開始した豪州ではメジャーな会社である。1931年からはGM系メーカーとして操業するも、2017年以降は生産を終えており、現在はブランド名の消滅を待つばかりの状態だ。

写真は、「HZ」世代のプレミア・ステーションワゴン(1977年)。基本的なボディシェルや表情はHJと同じなので、日本人からすれば「すわ、ロードペーサーにワゴン!?」 と思ってしまう。

ホールデンは、本国GMの技術をベースに、豪州向けに独自開発した中型車「HKシリーズ」を1968年に投入。トリムレベルによって下から「ベルモント」「キングスウッド」「プレミア」と続き、スポーティモデルが「モナーロ」と呼ばれた。HKから始まったこのモデル群は、1979年にかけて「HK」「HQ」「HJ」「HX」「HZ」と進化していったが、ロードペーサーAPの元になったのは、1971年から1976年まで生産された「HJ」世代のプレミアである。当時の日本ではとても大きなクルマだったが、豪州では、インターミディエートという中型クラスに属した。

こちらはスポーティ版「モナーロ」。写真は、ロードペーサーAPと同じ世代=HJのモナーロGTSで、標準エンジンは253 Cu.in(キュービックインチ。253だと、4.1L)V8。オプションで308 Cu.in(5 L)も選択可能だったが、HQ時代の「GTS350」では、350Cu.in(5.7L)も存在した。

ちなみに、トップ画像のモデルは、「HZ」世代の「モナーロGTS」である。「マツダ・ロードペーサーAP」がチューニングされたら……という夢を叶えたようなスタイルがイカしている。

「ロードペーサーAPのなかま」に、こんな車種があった…となれば、スポーティ版のモナーロよりも衝撃が大きいかもしれない。上は、キャブのみ残した各種架装用仕様で、「ワントナー(One Tonner)」と呼ばれた。下の、カップルが車内でイチャイチャしているクルマは、HJのパネルバンに用意された「サンドマン」というオプションを装着したモデル。

【その2】いすゞの知られざる高級車「ステーツマン・デ・ビル」

■GMとの太いパイプを利用して生まれた「輸入フラッグシップ」

豪州生まれだけに、「いすゞ・ステーツマン・デ・ビル」もまた、日本車離れした外観と存在感を持つ。全長は約5mで、同時期のトヨタ・センチュリーに迫る大きさだった。

1950年代から英国ルーツ・グループと提携し、乗用車の生産を開始したいすゞは、「ベレット」「フローリアン」「117クーペ」などの傑作車を次々と生み出した。1971年以降はGMと業務提携を結び、密接な関係を築いたのはご存知の通り。その結果、世界戦略車の「ジェミニ」も誕生している。

それと並行して、いすゞは高級車市場への参入を進めることになった。その方法は、マツダと同様に、日本仕様へのコンバートが容易な豪州車を輸入すること。いすゞにはGMとのパイプがあったので、ホールデンの車種が選ばれたのは必然だった。それが、「ホールデン・ステーツマン」のいすゞ版、その名も「ステーツマン・デ・ビル」で、1973年に登場した。同社では、1967年に生産を終えた「ベレル」以来、クラウン・セドリック・グロリア・デボネア・ルーチェクラスの高級車を持たなかったので、それを飛び越えての、規格外に大きな高級車の導入となった。

台数が多く望めない車種ながら、CMキャラクターにジャック・ニクラウス氏を起用。「成功する男」をキーにしたコピー展開が行われた。外装4色に対し、内装が3色も設定してあったことに、いすゞが本気でこのクルマを売ろうとしていたことが推し量れる。

しかし、折しも時はオイルショック。ステーツマン・デ・ビルの大排気量5Lエンジンには逆風そのものだった。しかも、もとよりパイが少ない最高級車市場で、ブランド力もあるセンチュリーとプレジデントの牙城を崩すのも容易ではなく、価格も348万円と高価だったステーツマン・デ・ビルは、わずか2年で姿を消してしまった。販売台数は250台に届かないが、鹿児島県の「A-Zスーパーセンターはやと」というスーパーに、現存唯一と言われる個体が保存されている。

■ベースは「ホールデン・ステーツマン(HQ)」 ロードペーサーAPとも深い縁

ベースとなったのは、HQ世代の「ステーツマン・ドゥ・ビル」。標準搭載のエンジンは、最高出力240psを発生する308Cu.in(5L)のV8で、これはそのまま、いすゞ版にも用いられた。

ベースのホールデン・ステーツマン(HQ)は、実は先ほどのロードペーサーAPの下敷きになった、プレミア(HJ)のロングホイールベース版で、さらなる上級モデルという扱いだった。HQはHJよりも前にあたるモデルであるが、実質的な中身は同一。つまりステーツマン・デ・ビルと、ロードペーサーAPは兄弟車である。ステーツマン(HQ)には、ベースの「カスタム」と上級版の「ドゥ・ビル(De Ville)」があり、いすゞでは後者をチョイスしていた。ロードペーサーAPと違ってエンジンは本国のままで、日本向けには5L・V8を積む。最高出力240psは、センチュリーの170ps、プレジデントの180psはおろか、当時のどんな国産スポーツカーよりも高い数値だった。

1971年にHQシリーズに加わったステーツマンは、プレミアなどと同様にHJ、HX、HZへと発展。HJ世代以降は、ロードペーサーと同じようなマスクが与えられていた。写真はHZ世代のステーツマン。1979年以降は、ドゥ・ビルの名は姿を消し、「SL」「E」という名称に変わった。

【その3】時代が生んだ徒花「三菱クライスラー 318 & チャージャー770」

■三菱も豪州からの輸入で大型高級車をラインナップ

三菱が作成した当時のカタログより。高級セダンの「クライスラー318」と、ハイエンドなパーソナルクーペを目指した「クライスラー・チャージャー770」の象徴的なカットを抜粋して並べてみた。どちらも、車種の性格をよく示している。

三菱クライスラーシリーズが、三菱車としてふつうに売られていた「証拠」。チャージャー770の扱いが大きく、期待の大きさを感じさせる。豪州車はアメリカ車のイメージが強いが、三菱は「ギャランGTO」などアメリカナイズされたモデルも多かったこともあり、チャージャー770もさほど違和感なく収まっている。

1970年前半の三菱は、すでに高級車の「デボネア」を擁していたが、デボネアにようやく直6エンジン搭載モデルを投入したばかりで、さらに上のランクに投入する最高級車を自社で開発する余力はなかった。そこで三菱は、1970年からアメリカのクライスラーと懇意になったことを利用し、クライスラー・オーストラリアから(日本では)大きな高級車を輸入して、それを充てることに決定。1972年から、セダンの「三菱クライスラー 318」と、クーペの「三菱クライスラー・チャージャー770」の販売を開始した。

 

豪州車とはいえ、見るからにアメリカ車の雰囲気を内外装から存分に漂わせる「クライスラー318」。シフターはステアリングコラムから生える。「318」の車名は、搭載エンジンの排気量=318Cu.in(5.2L)の数値そのままだ。ベースとなった本国の「クライスラー・バイ・クライスラー(CJ)」は、かの地では標準エンジンは265Cu.in(4.3 L)の直6で、V8は360Cu.in(5.9L)がオプション設定だった。

一方のチャージャー770のインテリアは、黒とシルバーでハードなイメージ。折れ曲がったフロアATシフターに、クライスラーが作ったマッスルカーの息吹を感じる。エンジンは318と同様、318Cu.inのV8で、最高出力は230ps。しかし、本国チャージャーのエンジンは、318同様にメインが直6だった。

■ベースとなったのは、その名も「クライスラー・バイ・クライスラー」
豪州クライスラーが1960年代に送り出したセダン「ヴァリアント」は、当初は本国の「プリムス・ヴァリアント」そのままだったが、3代目からは独自性を増し、1971年からのVH世代では、完全に豪州設計になった。同時に、ホイールベースを延長して装備を増した上級版の「クライスラー・バイ・クライスラー(CH)」も誕生。1973年にCHは「CJ」世代に改良され、これが三菱クライスラー318として日本に持ち込まれた。

チャージャー770のベースは、VH世代ヴァリアントの2ドアモデル「ヴァリアント・チャージャー」で、「チャージャー」「チャージャーXL」「チャージャー770」「チャージャーR / T」が展開されていた。

318とチャージャー770の、本国の姿がこちら。318では外観の変化は少ないが、後者では日本仕様のヘッドライトは丸目4灯になっており、大きな違いが見られる。

ここまで読んだ人ならば、この三菱クライスラーシリーズが、ロードペーサーAP、ステーツマン・デ・ビルと同じ運命を辿ったと予想するのは簡単だろう。残念ながら、318・チャージャー770ともに、全長5m超の大きな車体、高価格(318は396万円もした)、大きすぎるエンジン、オイルショックなどによって、全くといっていいほど売れなかった。1974年までの販売台数は、合計で250台に届かなかったという。

【その4】(おまけ)そのほかの豪州生まれ国産車

■おおらかさが魅力の「三菱・マグナ・ステーションワゴン」と「ディアマンテワゴン」
最後は、おまけ。豪州製の日本車で忘れてはならない車種を駆け足で見ていこう。

まずは、ミツビシ・モーターズ・オーストラリアで製造され、三菱商事により輸入・三菱のディーラーで1988年から1993年まで販売された「マグナステーションワゴン」から。日本では5代目ギャランΣにあたるが、車幅が拡大されていた。エンジンは直4の2.6L(4G54型)のみ。なおマグナは、豪州ではセダンも存在しており、日本にもサンプルでわずかながら上陸している。

マグナワゴンの跡を継いだのは、「ディアマンテワゴン」だ。こちらも、初代・2代目どちらも豪州生まれ。エンジンは両世代とも3LのSOHC V6の「6G72型」で、初代が2バルブ、2代目が4バルブヘッドを持っていた。

■みんな覚えてる? 「日産・ブルーバード・オーズィー」
お疲れ様でした。そろそろ終わりです。次は、「日産・ブルーバード・オーズィ」。本国では、「ピンターラ」と呼ばれていた。5ドアは日本では売れない……という当時のジンクスや、メンテの問題などから、売れ行きに悩んだモデル。ゆえに、現在はほぼ絶滅している。余談だが、初代ピンターラは「R31型スカイライン」の4気筒モデルだった。

豪州製のU12型ブルーバードの、しかも5ドアハッチバックを逆輸入したという、日本車だ。

そして最後の最後は、おまけのおまけ。本筋と関係ないが、2代目ピンターラ=ブルーバード・オーズィーの兄弟車、「フォード・コルセア」で締めくくろう。2代目ピンターラ=フォード・コルセアは、1989年から3年間しか販売されなかった。エンジンは2L(CA20E)と2.4L(KA24E)で、ピンターラと同じだった。5ドアは「リフトバック」と称した。これもまた「知られざるクルマ」だ。

毎度毎度の長い記事だが、最後までお読みいただけて嬉しい。次回は、「海外で活躍した軽自動車たち」の第一弾として、「スズキ編」をお送りする予定なので、どうぞお楽しみに。

この記事を書いた人

遠藤イヅル

1971年生まれ。東京都在住。小さい頃からカーデザイナーに憧れ、文系大学を卒業するもカーデザイン専門学校に再入学。自動車メーカー系レース部門の会社でカーデザイナー/モデラーとして勤務。その後数社でデザイナー/ディレクターとして働き、独立してイラストレーター/ライターとなった。現在自動車雑誌、男性誌などで多数連載を持つ。イラストは基本的にアナログで、デザイナー時代に愛用したコピックマーカーを用いる。自動車全般に膨大な知識を持つが、中でも大衆車、実用車、商用車を好み、フランス車には特に詳しい。

遠藤イヅル

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