ミウラ、還暦! 2026年は祝いの年に
ランボルギーニにとって今年・2025年および来年・2026年は、大きな周年記念の年である。スーパーカーの元祖であるミウラのデビューから60周年となるのだ。1965年11月にはトリノ・モーターショーでベアシャシーが発表され、翌1966年3月にはボディを架装したミウラが正式に発表された。そこでここでは、この革新的な車種の登場とその経緯について振り返ってみよう。
【画像29枚】その衝撃を今に伝えるベアシャシーを細部まで見る!
裸で示されたメカニカル・エッセンス
今から60年前、1965年のトリノ・ショーでランボルギーニが発表した展示物は、折り曲げられた薄板——多数の軽め孔が開けられている——で構成された、剥き出しの構造体であった。特徴的だったのは、リアに4L V12エンジンが横置きに搭載されていた点である。その外観はレーシングプロトタイプを彷彿とさせたが、これが後のミウラの土台となる「P400シャシー」であった。
ランボルギーニは、このシャシーを展示することで、次期生産車が持つ機械的な本質を公に宣言したのである。それは、当時のロードカーでは前例のなかった技術的構成であり、新たな時代を切り開くという、無言の宣言だった。
P400シャシーの設計思想は、1964年夏にランボルギーニの若手チーム、すなわちエンジニアのジャンパオロ・ダラーラ、パオロ・スタンツァーニ、そしてテストドライバーのボブ・ウォレスの3人の直感から生まれた。当時20代前半であった彼らは、ランボルギーニをレースの世界へ参入させるという夢を共有していた。
それは創業者フェルッチオ・ランボルギーニの当初の計画にはなかったものではあったが、彼らは「車がレース場へ行けないなら、レース場の技術をロードカーに持ち込む」という発想に至った。このアイデアが「プロジェクトL105」として具体化、極限の性能と革新的なデザインを想定した、軽くてコンパクトなシャシーとして実現した。
フレームはモデナのマルケージ社によって製作されたもので、0.8mmの鋼板を使用し、軽量性と剛性を両立。シャシーの総重量はわずか120kgであった。特に革新的だったのは、エンジンとギアボックスを一体化させ、キャビン後部にコンパクトに横置き搭載した点である。
ベルトーネとの運命的な出会い
トリノで展示されたこのP400シャシーはプレスと一般聴衆を魅了するとともに、多くの重要なコーチビルダーの関心も引き付けた。当初はカロッツェリア・ツーリングに「プロジェクト・ティーグレ」として提案されたものの、ツーリングの財政難により実現しなかった。また、ピニンファリーナは他のメーカー(お分かりだろう)との契約により関与が難しかった。その結果、チャンスをものにしたのがヌッチオ・ベルトーネである。
ブースを訪れたベルトーネに対し、フェルッチオは冗談交じりに「あなたはここへ来てくれた最後のコーチビルダーだ」と声をかけ、ベルトーネはこれに「この素晴らしい足にぴったりの靴を作って差し上げます」と応じたも伝えられている。その真偽はともかく、ミウラのボディワークはベルトーネに委託されることとなり、クリスマス休暇中に示された最初のスケッチは、直ちに最終プロジェクトとして承認された。
P400シャシーは、翌年1966年3月のジュネーブ・モーターショーで、最終的なボディをまとってミウラとして世界にデビューを飾った。この車は、スタイルとパフォーマンスにおいてスーパー・スポーツカーの世界を永遠に変えたモデルであると言えよう。
その革新性ゆえに、当時こうしたスポーツカーを表す言葉ではなかった「スーパーカー」(アメリカでは、後にマッスルカーと呼ばれるようになる種類のモデルが、当時この言葉で呼ばれていた)が、あるイギリス人ジャーナリストによって一般的なものとなったのである。
ランボルギーニは2026年、ミウラ誕生60周年を記念した1年にわたる祝典と公式のポロ・ストリコツアーを実施する予定であるという。それがどのような内容のものとなるか、今から非常に楽しみだ。
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