養蚕景気のおかげでいまも残る旧街道の町並み
ゆったりと噴煙をたなびかせる浅間山の裾野を千曲川の流れと寄り添うように進んでいく北国街道。佐渡の金銀を江戸へと運んだこの街道のあちこちには、いかにも日本の田園地帯といった風景が点在する。観光地をあくせく巡るのではなく、のんびりと旅したい。
江戸時代、幕府が直轄する五街道以外の主要な道は、『脇街道』や『脇往還』と呼ばれていた。信濃追分で中山道から分かれ、越後国へといたる北国街道もそのひとつである。
江戸幕府が公用の使者や物資をスムーズに移動させるため、東海道に伝馬制度を敷いたのは慶長6年(1601年)。そして、この2年後には北国街道にも伝馬制度が導入されている。脇街道ながら、幕府が街道整備を急いだ理由は佐渡金山の存在にあった。
当時、江戸と佐渡とを最短距離で結ぶ三国街道(現在の国道17号)には、上越国境に標高1224mの難所、三国峠があり、大量の荷を安全に運ぶのに適していなかった。そこで金の輸送ルートとして選ばれたのが、千曲川沿いをなだらかに進む北国街道なのである。佐渡で産する『佐州御運上金銀』は、毎年春と秋の2回、厳重な警護のもと、100頭ほどの荷馬の背に揺られ、江戸へと送られていった。
金銀の輸送ばかりでなく、善光寺へ参詣する人の往来が多く、また、北陸や東北の大名も参勤交代路として利用したため、当時の北国街道はけっこうな賑わいだった。そんな面影を今に伝えるのが、上田城下の東およそ8kmに位置する海野(うんの)宿である。
用水路に沿って柳の並木が続く海野宿は総延長が650mほど。その両側には、2階部分を張り出した出桁造りの家々がびっしりと並んでいる。目を惹くのは美しい格子戸、そして、さまざまな意匠を凝らした卯建(うだつ)だ。
「この町並みが生き残ったのはカイコのおかげなんですよ」
そんな話を聞かせてくれたのは海野宿歴史民俗資料館の女性だった。
雨が少なく、空気の乾燥した塩田平(上田盆地)では、明治以降、養蚕が盛んに行われた。なかでも旅籠二階の大部屋を使って大量のカイコを育てることのできた海野宿は、養蚕の中心地となり、人々は財を成し、立派な卯建を立ち上げていった。現在、海野宿に残る家並みは、この時期にたっぷりお金をかけて建てられたものなのだ。