銀の発見で突如できあがった山中の巨大歓楽都市
新潟の魚沼と福島の檜ひの枝え 岐またを結ぶ国道352号は、酷道ファンにはよく知られた秘境ルートだ。途中には集落も、ガソリンスタンドもなく、曲がりくねった山道を沢水が横切っていく。かつてこの地には良質な銀山があり、2万5000人が暮らす大きな町があったという。
近世を通じて世界有数の銀生産量を誇った日本には、世界遺産の石見以外にも数多くの銀山が存在していた。信長、秀吉、家康の天下取りを陰で支えた生野(兵庫県)、『出羽の都』とまで謳われた院内(秋田県)などなど、時期によっては石見をも上回る銀を産出する鉱山が各地にあったのだ。
越後山中の銀山平(別称:上田銀山)もそのひとつである。
只見川源流で銀が発見されたのは江戸初期の寛永18年(1641年)。当時もこのあたりはまったくの秘境で、高田藩と会津藩の国境さえ確定されていなかった。ところが、銀の発見者が小出島・湯之谷郷(高田藩領)の農民だったため、当然のごとく国境争いが発生する。幕府の仲裁により、両藩の国境が只見川の真ん中に決定したのは15年後のこと。その名残で、いまも新潟と福島の県境は分水嶺の稜線ではなく、只見川に引かれているのだ。
その後、銀山平は幕府の直轄領となり、豊富な資金と人力を投入して積極的な開発が進められる。銀の産出が最盛期を迎えた元禄年間、銀山平の人口は2万5000人にも達した。『千軒原』と呼ばれる中心街には遊郭が建ち並び、酒と遊女を目当てに男たちが行き交っていたという。人里離れた山奥に巨大歓楽街までできあがったのだ。
そして、一年に千貫(約4トン)にものぼる銀の採掘や運搬のため切り拓かれたのが、小出島(魚沼市小出)から銀山平へといたる銀山街道である。
この山越えルートの中間点、枝し 折おり峠には2つの由来が残されている。ひとつは人々が峠越えの前に道中の安全を祈るため、木の枝を折りとり、山の神様に手向けたというもの。もうひとつは、深い森の中をゆく峠道で迷子にならないよう、目印として路傍の木の枝を折りながら歩いたというものだ。
かつての銀山街道の一部は、『ハイキングコース・銀の道』として復元されているが、実際に歩いてみると、ハイキングとは名ばかりの信じられないほど険しい山道である。