小浜から京の錦市場まで魚荷衆が夜通し歩いた
京都の北、琵琶湖の西につらなる山なみを抜け、若狭湾の海の幸を都へ運び続けてきた道がある。この道が鯖街道と呼ばれたのは江戸時代からだが、交易路としての歴史はもっと長い。古代から海産物が行き来してきた街道筋には、うつくしい里山の風景が今もたっぷり残っている。
京と若狭国を結ぶ道が『鯖街道』の名で呼ばれるようになったのは、サバが大量に獲れるようになり、京の庶民も口にできるようになった江戸中期以降といわれる。『サバの生き腐れ』などと称されるように、脂肪分の多いサバは足が早いため、港に揚がるとすぐ塩で締められた。これが食べ頃になるのは翌日。一昼夜を経て、タンパク質がアミノ酸に分解され、魚の旨みがぐんと増すのである。
小浜で塩締めされたサバは魚荷衆という運搬人に託され、翌朝には京の台所、錦市場へと運び込まれていった。
『京は遠ても十八里』
この言葉には、京までの距離感だけではなく、高値で取引されるサバを背負い、夜通し歩き続けた魚荷衆の気概も込められていたに違いない。
そもそも道としての鯖街道のルーツは古代までさかのぼる。
日本海に面する若狭国は、税としての塩ばかりでなく、鯛やアワビ、海草など、朝廷の料理や供え物に欠かせない御み 贄にえを献上していた。当時、こうした海産物を貢ぐ国は『御食国(みけつくに)』と呼ばれた。なかでも若狭は最重要の御食国として都と強く結びついてきた。
現在、鯖街道として最も知られているのは、朽木(くつき)村や熊川宿を抜ける若狭路(国道367号など)だが、もう一本西寄りの周山街道(国道162号)、敦賀と海津を結ぶ西近江路(国道161号)なども、若狭の塩や海産物が盛んに行き来した。広い意味で言えば、このあたりを南北に走る道筋はすべて『塩の道』であり、『鯖街道』なのだ。
奈良の都に春を告げる『お水取り』は、東大寺二月堂の井戸、若狭井で香水を汲んで本尊に供える。その井戸の水源とされるのが小浜にある若狭神宮寺の前を流れる遠敷川。毎年、『お水取り』と同じ時期、ここでは『お水送り』の神事が執り行われる。