養蚕業に欠かせなかった大家族での共同生活
国内有数の豪雪地帯ということもあり、1年の半分は下界から隔絶されていたともいわれる山村に、なぜこれほど立派な合掌造りの家が建ったのだろう。そこには山里ならではの営みが色濃く浮かび上がってくる。
合掌集落を訪れると、まず驚くのは建物の大きさだ。最大級のものは内部に5層の構造をもち、屋根の高さは15mにも達する。
この日、白川郷の積雪は約80cm。
「ものすごい雪ですねぇ」と道の駅で女店員さんに話しかけると、軽くあしらわれてしまった。
「まだまだ積もりますよ~。白川の雪はこんなもんじゃありませんから」
荻町展望台から眺める夏の白川郷。
合掌造りというのは、岐阜/富山県境の山間部に独特な農家の造りで、傾斜の強い切妻屋根が掌を合わせた形に似ていることからその名がある。この地方に合掌民家が建てられるようになったのは江戸時代初期。世界遺産の白川郷や五箇山には築300年、築400年という建物も珍しくない。
合掌造りは小さなものでも3層、大きなものになると5~6層、高さは15mにも達する。近寄ると見上げるほどの大きさなのだ。では、なぜこれほど大きな家が必要だったのだろう?
御母衣(みぼろ)ダム湖底に沈んだ村から移植された荘川桜。推定樹齢450年の巨木で、4月下旬から5月中旬頃、花を付ける。
寒冷な白川郷周辺では稲が育たないため、養蚕業が山村の暮らしを支えてきた。その蚕を育てるには風通しのいい、広い屋内空間が不可欠。また、餌となる大量の山桑を集めたり、繭から生糸を紡ぐには、多くの男手や女手も必要としていた。さらに言うと、耕作地の不足する山村では、分家はなかなか許されず、子どもたちは成長後も家長のもとで一緒に暮らしていくことが多かった。こんな背景から生まれたのが巨大な合掌造りの家なのである。
江戸時代から明治にかけて、白川郷では30人から40人もの大家族がひとつ屋根の下で暮らしていたという。
白川郷名物の石豆腐。身がぎっしり詰まっていて、箸では崩れないほど固い。スーパーなどで普通に売られている。