誰もが知る有名なメーカーが出していたのに、日本では知名度が低いクルマを紹介する連載、【知られざるクルマ】。第24回は、前回に引き続き、アメリカ車の話題をお送りしたい。なお予告では「知られざるとびきりのラグジュアリーモデル」を記す予定だったが、予定を変更して、「他のクルマを依り代(よりしろ)にして生まれた、変わり種キャディラック」を取り上げる。タイトルにある「いすゞ・アスカ」の兄弟車ってナンダ!?
【シマロン】 世界中に兄弟車があった世界戦略車「Jカー」の最上級車種
1970年代に入り、北米市場ではBMW3シリーズやメルセデス・ベンツ190、アウディ80(北米では4000と称した)、サーブ900などの欧州製高級・高性能コンパクトサルーンが台頭し始めた。その多くが2Lクラスの4気筒エンジンを搭載していた。しかしGMを、いやアメリカを代表する高級車ブランドであるキャディラックには、それらに対抗できる車種を持ち得ていなかった。
そこでGM=キャディラックは、1981年に生まれた、GMグループの国際戦略FFプラットフォーム、およびそれを元に構築された「Jカー」を用い、キャディラック初のサブコンパクトカーの「シマロン」を発売した。1982年のことである。
Jカーのボディは約4.4mで、サイズ的には欧州の強敵と合致し、キャディラックの名を冠するだけあって、アルミホイール、多用されたメッキ、エアコン、本革シートなどを標準で備えていた。シマロンは、「小さなキャディラック」「エントリー・キャディラック」というだけではなく、それまでのアメリカ車には存在しなかった「小さな高級車」でもあったのだ。
だが、デビュー時のシマロンのエンジンは、最高出力88psに過ぎない1.8L直4OHVで、力不足は否めなかった。前後のデザインを派手にしてはいるものの、北米向けJカーの中でも大衆モデルの「シボレー・キャバリア」と見た目はほぼ変わらなかった。それでいて価格は、仕様によってはキャバリアの倍近くにも達した。
そのためシマロンは、発売まもない時期でさえ、GMの目論見通りの販売台数には届かなかった。そこで1983年にはエンジンを2Lインジェクションに、1985年の外観小変更では2.8L V6エンジンをオプション設定、1987年にはマスクを上位車種に近づけ、V6を標準化するなど、継続して改良が行われた。欧州製スポーツセダンを意識した足回りも年々進化し、高い評価が与えられていた。
しかし最後まで台数は伸び悩んだまま、1988年で生産を終了。今だにアメリカでは「バッジエンジニアリングカーの失敗例」とまで呼ばれ、GM社内でもシマロンで飲まされた辛酸を今なお忘れていない、という。
それではここからは、シマロンのベースであるJカーを何台か見てみたい。世界各地で名前と姿を変えて売られたJカーの、北米代表はシボレー・キャバリアだ。そしてさらにディビジョンごとに「ポンティアックJ2000(その後改名して単なる「2000」、そしてさらに「2000サンバード」→「サンバード」)」、「オールズモビル・フィレンザ」「ビュイック・スカイホーク」が存在した。
続いて欧州。こちらではやはりJカーの代名詞として「オペル・アスコナ(C)」があげられよう。英国市場では、「ボクスホール・キャバリア」という名称だった。
Jカーは、アジア・オセアニア・南米でも販売された。その筆頭は、日本の「初代いすゞ・アスカ」だろう。アスカは、海外では仕向地により「いすゞJJ」「シボレー・アスカ」「ホールデン・カミーラ(JJ)」「ホールデン・アスカ」など、実に様々な名前で販売していた。また、ややこしいことにオペル・アスコナ(C)は、南米で「シボレー・モンツァ」として売られ、オーストラリアでは「ホールデン・カミーラ(JB)」という名を持っていた。さらに韓国には、ベルトーネ作といわれる流麗なボディを持つ「デーウ・エスペロ」が存在した。このようにJカーは、ネタとしてとても面白いので、この連載で改めて取り上げようと思っている。
【カテラ】まぁるいオペル・オメガをキャディラックに仕立てると……?
シマロンで失敗したGM=キャディラックだったが、欧州製セダンとの戦いを諦めたわけではなかった。次のターゲットは、いわゆるEセグメント。BMWで言えば5シリーズ、メルセデス・ベンツではEクラス、アウディならA6、レクサスだとES300に相当する。これまたハードルが高いチャレンジな気がするが、キャディラックには若々しくスポーティでフレッシュなモデルの投入は不可欠だったのだ。そのキャディラックの名は、「カテラ」。1996年のデビューである。
そこでキャディラックは、再び他ブランドのベースモデルを “キャディラック化” する作戦に出た。元になったのは、GMグループ内、オペルの高級車「オメガ(B)」。ドイツで生産されて北米に運ばれたカテラは、外観はほぼオペルだったものの、シマロンの反省からかエンジンは当初から200psを発生するV6を用意。安全装備と豪華装備を満載し、キャディラックのエントリーラグジュアリーカーにふさわしい、高級なクルマに仕立て上げられていた。発売時の価格は29.995ドルだった。
だが、このカテラも、結局は失敗作に終わってしまった。元になった「オペル・オメガ(B)」は、たしかに欧州製後輪駆動スポーツセダンとして優れたセダンだったが、いにしえのキャディラックユーザーをも取り込もうとしたばかりに、ソフトな足のセッティングをカテラに与えたことが、欧州車を好む層にはむしろ逆効果になった。外観がほぼそのままだったこと、キャディラックとしての押しが足りなかったことも関係したこともあるだろう。そのため、2000年の大掛かりなマイナーチェンジも功を奏することなく、2001年をもってカテラの生産は終わりを迎えている。
【BLS】北米では販売されなかった、サーブが開発した「欧風キャディラック」
ラストは、日本での知名度がほぼないかもしれない「BLS」で締めくくろう。BLSは、ズバリ「欧州向けキャディラック」だった。
2000年前後の欧州市場においてのキャディラックは、世界に名だたる高級車ブランドとしての認知が進んでいなかった。そこでGMは欧州専売のキャディラックを販売することとし、GM傘下でプレミアムカー作りに長けていた、サーブにそれを一任した。なお、サーブは1990年からGM の資本を受け入れ、2000年には完全子会社になっていた。
そしてサーブは、自社のDセグメントラグジュアリーセダン「2代目9−3」をベースに、「BLS」を開発した。そのため、生産もサーブの工場で行われたという、変わった経歴のキャディラックである。元々この9−3自体が、GMの「イプシロンプラットフォーム」を用いて生み出されたクルマであるため、兄弟車には「オペル・ベクトラ(C)」「オペル・シグナム」「オペル・インシグニア」「7代目シボレー・マリブ」「ポンティアック G6」「サターン・オーラ」「2代目フィアット・クロマ」などを大量に擁している。
そこかしこに9−3と共通のパーツを用いていたBLSは、シャープなキャディラック・フォルム、豪華な内装、優れた性能を有していたことから、GM=キャディラックの夢を叶えるかに見えたが、残念ながら欧州市場で受け入れてもらうことはできなかった。欧州以外にもロシア、韓国、メキシコなどでも販売したが、これらのエリアでも販売は不発に終わった。鳴り物入りで誕生したが、生産年数は正味5年だった。欧州市場という事情があったにせよ、「依り代キャディラック」では、かつてのシマロン、カテラと同じ道を歩んでしまう運命からは、逃げられなかったのかもしれない。
小型キャディラックという発想は、時代が早過ぎた?
今回の3台、シマロン・カテラ・BLSは、いずれも決して成功作とは呼べなかった。しかしながら、そうなってしまったのはこのクルマたちだけのせいではない。やはり「キャディラック以外のクルマをキャディラックにする」ということが問題だったのだろう。また、北米市場がドメスティックなクルマに「コンパクトな高級車」を求めていなかった傾向もあるはずだ。キャディラックでもようやく近年の「ATS」(BLSの後継車)で、欧州Dセグメントサルーンと戦える力強いコマを得た感がある。現在ラインナップする、CT4(ATS後継。日本未発売)、CT5などのキャディラックセダンは、キャディラックらしいスタイルとエレガンス、スポーティさを兼ね備えたモデルとして、世界中で高い評価を得ている。そう思うと、シマロン・カテラ・BLSの「スポーティな小型キャディラック」は、出た時期が早過ぎたのかもしれない。
ということで、まとめてしまうと、昨今のキャディラックでは、ATS→BTS のように、モデルチェンジごとの車名変更、クラスを超えた統廃合が行われことが多く、過去のモデルとの紐付けが難しい。そこで、ル・ボラン534号(2021年9月号)掲載の連載「車系譜MANDA-LA」第16回で、セビルを中心としたキャデラックセダンの系譜を追っているので、ぜひご覧いただきたい(宣伝)。
なお、今回使った「依り代」という言葉は、明鏡国語辞典によると「神霊が降臨するときに宿ると考えられているもの。憑依(ひょうい)体とされる樹木・岩石・動物・御幣(ごへい)など」を指す。アメリカ車の絶対的高級車ブランド・キャディラックが、一般的・普及版の車種に宿った……という意味で使ってみた。
次回は話を大きく変えみたい。まだ内容は決めていないが、これまた「知らないよ、こんなクルマ!」というネタでお送りするかもしれない。どうぞお楽しみに!
この記事を書いた人
1971年生まれ。東京都在住。小さい頃からカーデザイナーに憧れ、文系大学を卒業するもカーデザイン専門学校に再入学。自動車メーカー系レース部門の会社でカーデザイナー/モデラーとして勤務。その後数社でデザイナー/ディレクターとして働き、独立してイラストレーター/ライターとなった。現在自動車雑誌、男性誌などで多数連載を持つ。イラストは基本的にアナログで、デザイナー時代に愛用したコピックマーカーを用いる。自動車全般に膨大な知識を持つが、中でも大衆車、実用車、商用車を好み、フランス車には特に詳しい。