幕末の志士・吉田松陰が自分の足で越えた最後の峠
もともと下田街道は、人や荷の往来が少ない静かな道だった。それがにわかに騒がしくなるのは幕末である。
嘉永6年(1853年)、ペリー率いる黒船が浦賀沖に出現。翌年、再び現れたペリー艦隊は下田と箱舘を開港させる日米和親条約を幕府との間に結ぶ。この2年後には初代駐日総領事・ハリスが下田に上陸して、玉泉寺に総領事館を開設。伊豆南端の小さな港町が開国の檜舞台となっていったのだ。
このとき役人や兵士、諸国の志士たちに混じって、ひそかに天城峠を越えたのが、のちに明治維新の精神的指導者として名をあげる吉田松陰だった。
安政元年(1854年)、外国留学の意志を固めた松陰は、同藩出身の金子重輔とともにペリー艦隊のボーハタン号に小舟を漕ぎ寄せるが、アメリカ側は乗船を拒否。ことが周囲に迷惑をおよぼすことを恐れた松陰はそのまま自首し、囚われの身となるのである。
あまりにも早すぎた松陰晩年の足跡を追うと、彼の歩んだ道のりの長さに驚かされることになる。
20歳のとき、アヘン戦争を知った松陰は、まず西洋兵学を学ぶため九州諸藩へ遊学する。そのあと江戸へ出て佐久間象山に師事しながら東北地方を巡り、海峡を通過する外国船を見るため、津軽半島まで足を伸ばす。さらに1回目の密航を企て、ロシア艦隊の停泊する長崎に駆けつけ、それに失敗するといったん江戸へ戻り、今度は下田へと向かったのだ。このとき松陰は24歳。彼にとって天城峠が自分の足で越えた最後の峠となってしまう。
国道414号の天城峠には、昭和45年に有料の新トンネルが完成(平成12年から無料開放)。道路としての役割をほぼ終えた旧道は、その後、傷んだ舗装のアスファルトをはがしたり、目障りな道路標識を撤去するなどして、すっかり昔の雰囲気を取り戻している。お役所の仕事としては、じつに粋な計らいというべきだろう。