日本に残された最後の野生動物の楽園
「ウトロの市街地は小さくまとまっているので、周囲をぐるっと熊除けの柵で囲んであるんです。いってみれば〝動物園の檻〟みたいなものですよね」こんな話を聞かせてくれたのは、知床自然センターのスタッフ、片山綾さんである。もちろん〝動物園の檻”の中で暮らしているのは人間、その外側を自由に動き回っているのが野生のヒグマたちであることは言うまでもない。
知床半島で世界自然遺産に登録されているのは、先端の知床岬から国道344号の南側にそびえる遠おん音ね別べつ岳だけにかけてのエリア。総面積は約7万1100ヘクタール(海洋部を除く)で、これは東京23区をひと回り大きくしたサイズと考えてもらえばいい。
現在、このエリアに生息するヒグマは推定200頭。人口密度に比べると熊口密度というのはずいぶん小さいように思うかもしれないが、ヒグマ1頭のテリトリーは半径10㎞から数十㎞にも及ぶ。このあたりは世界でも有数のヒグマ密集地帯でなのである。
これだけヒグマの数が多いと、当然ながら、さまざまなトラブルが起こる。なかでも問題となっているのは知床半島の羅臼側で、前述のウトロと違い、こちらは相泊まで延びる道道87号に沿っていくつかの小さな集落が点在している。そのため、柵を作って人里とヒグマの棲む山を完全に隔てることはできないのだ。
「人里に出没する熊は、花火弾やゴム弾で威嚇して、山へ追い返すのですが、食料が不足したり、凶暴な仲間にエサ場を追われたりすると、また山を下りてきてしまうんですよ。そのうち通学路をうろつくようになると、もう害獣として駆除(殺処分)する以外、どうにも打つ手がなくて……」片山さんは人と野生動物の共存の難しさをこう語っていた。
気持ちのいい道を走っていると、ついつい忘れてしまいがちだが、知床峠はこれほど貴重な大自然の真っ只中を抜けているのである。そしてもうひとつ、島国・日本で暮らしていると、ふだんは意識することのない国境の存在を実感させられる道でもある。
戦後70年間にわたりソ連とロシアが占領・実効支配を続ける国後島までは、羅臼の町から根室海峡をはさんで約25㎞。これはウトロから羅臼までの距離とほぼ同じである。
天気の良い日に知床峠に立つと、国後島はまるで手が届きそうなほど近くにあり、その向こうに太平洋の大海原が広がる。どう見ても、北海道の一部としか思えないのである。「あれだけ広い国土があるんだから、4つの島くらい返してくれたっていいじゃないか」こんなことをいったら、知床のヒグマたちに「人間はなんて身勝手な……」と怒られるに違いない。