
様々な断片から自動車史の広大な世界を管見するこのコーナー、先月号に続き今回もスロットカーを取り上げる。バービー人形と同じように、メイド・イン・トーキョーのスロットカーにまつわる思い出を語りたい。
スロットカーを夢見る頃は過ぎても

同じ静岡県で木製模型から出発したことからタミヤと比較されるハセガワは飛行機のモデルで高い評価を受け、タミヤは戦車のモデルで名を挙げた。両社ともスロットカーがきっかけとなって自動車のスケールモデルに乗り出した。
スロットカーとの出会いは、大きなショックだった。最初はたまたま遊びに行った同級生の家の居間で見たマルサンのHOスケール。それまで少年雑誌の広告でしか見ることがなく、遠い世界のことだと思っていたのが、なんと親に買ってもらった同級生が存在したのだった。

プラモデルメーカーによるF1のスロットカーは1965年までの1.5Lの時代だ。ジョン・サーティースのフェラーリ158やグラハム・ヒルのBRM P261など、細身の葉巻型F1は Coxの人気が高いが、日本でも東京プラモが製品化した。
8の字レイアウトの小さなホームサーキット(それがベーシックなセットだった)だったが、ぼくは目を丸くして眺めていた。ぼくも走らせたかったが、友達はコントローラーをなかなか譲ってくれなかったことを思い出す。ショートカットでスマートなお母さんから「あなたはいつでもできるんだから、お友達に譲ってあげなさい」と言われたのにもかかわらず。

スロットカーの性能を追求するなかで、ボディは軽量化に向かいインジェクションのプラスチックから軽量なバキュフォームのクリア・ボディに転換していく。やがてはダウンフォースを得る形状に進み、精密モデルでは無くなっていったのが、第1期ブームから生きながらえたスロットカーの末路だった。

ミドリのスロットカーの真鍮製チューブラーフレームは青柳金属工業製だろう。アメリカのアトラスはミドリからボディの供給を受けたが、パッケージやシャシーは独自のものを採用した。カングーロのモデルは珍しいがクライマックスやハセガワも製品化した。
次にスロットカーに接したのは、1964年から65年にかけて全国に100カ所以上が一気に造られたという1/24スケールのサーキットで、同級生のお兄さんに連れられて初めて見たのだ。やっているのは高校生か大学生だったろう。あまりにも日常とは乖離して、ほとんどエキゾチックといってもいいほどの異文化との出会いだった。スロットカーは、どんなおもちゃよりもぼくを虜にした。しかし、小学生の低学年にはあまりにも高価で、夢のまた夢。恋い焦がれるしかない世界だった。

25年ほど前に、神奈川県で主に海外輸出用の鉄道金属モデルを制作していた工房というより個人のお宅を訪問したことがあった。そこが’60年代当時に制作したのが実車のような板バネを持つシャシーで、デファレンシャルギア付きモデルも開発した。
その頃は、スロットカーという名称は知らないで、単にレーシングカーとか、より正当な言い方としてはモデルカー・レーシングと呼んでた。だからぼくは、母親がお土産を買ってきてくれるという機会に、レーシングカーを買ってきて、とねだったのだった。ぼくがまだジャガーやフェラーリなど、クルマの名前など何にも知らなかった頃だ。しかし、母親が買ってきたのは、レーシングーには違いなかったが、プラモデルであってスロットカーではなかった……。
ともあれ、それから2年後には、初めてのスロットカーを手に入れた。それはタミヤのダッジ・チャージャー。同級生は同じタミヤでもカレラ6やロータス40を持っていたのだが、何故にストックカーを選んだのだろう? その頃には、スロットカーブームも退潮となり、まもなくプラモデルメーカーはすべて撤退した。1969年頃には、もはやスロットカーを手がけるプラモデルメーカーは存在せず、もっと走行性能を追求したAYK(青柳金属工業)のシャシーとクライマックスのクリア・ボディが主流となっていた。
スロットカーの影響は甚大なもので、スロットカー制作の参考のためにAUTO SPORTを購読し始めたのがきっかけで、ぼくはクルマの魅力にすっかり取り憑かれてしまったのだった。