CARSMEET モデルカー俱楽部

今も魅了される絶頂期の輝き!その横には、地獄が静かに忍び寄っていた…【アメリカンカープラモ・クロニクル】第23回

1966年:ミッシング・イン・アクション

これだけは確実に断言できるが、アメリカンカープラモにとって1966年のような時間はもう二度とやってくることはない。

【画像67枚】統一感とスパイに満ちたこの年のキットたちを見る!

1965年から1966年にかけて、このホビーをリードするamtのアニュアルキット・ラインナップは最大級のボリュームに膨れ上がった。20タイトルを越えるキットの一斉展開がアメリカ各地の玩具店やデパートなどでどれほどの威容を示したかは想像に難くないが、そのインパクトはこの年になって完全な統一デザインとなったインディビジュアライズド・ボックスによってさらに強化された。

古くからのアメリカンカープラモ・ファンの記憶に1966年という年がひときわ鮮烈に焼きついているのはやはりこのボックスアートによるところが大きく、新キットの点数からいえば、じつは1965年次の方が多かった(1965年は25点、1966年は21点)。1966年のamtには、MPCにライセンスを奪われたポンティアックだけでなく、オールズモビルが不在だったのである。

1966年式オールズモビルのアニュアルキットは完全にミッシング・イン・アクション(作戦行動中行方不明)の状態にあった。88・98のフルサイズはいうに及ばず、時勢にのっていい売上が見込めるはずのインターミディエイトさえひとつも、どこからもキット化されなかった。

理由はさまざまに取り沙汰されるものの、明確な答えはいまだに出ていない。ひとつはっきりしているのは、翌1967年になってオールズモビル・トロネードの初キット化が「流通はamtバッジ、設計・製造はジョーハン」という前代未聞の形態で実現したことだ。

トロネードのモデルイヤーは周知のとおり1966年からだが、イノベーションにもとづく新製品開発がどれほどリスキーなゲームかを思えば、誕生までに相応の難航を経験したこの斬新なモデルがスケジュールどおりの関連商品開発にうまくつながらなかったとしても不思議はない。

いずれにせよこの年のオールズモビルについては各社とも息をひそめ、翌1967年はamtバッジ/ジョーハン金型によるトロネードのワンテーマ・イシュー、さらに1968年にはamtからのトロネードに加え、晴れてジョーハンのラインナップに1963年以来のオールズモビルが帰ってくることとなる。

巧みな駆け引きによってamtからポンティアックの、ジョーハンからダッジのアニュアルライセンスをもぎ取ったMPCは、amtよりぐっと地味ではあったものの、やはり統一感のあるパッケージデザインを採用したキット群を一斉に送り出した。TVのブラウン管に似たフレーミングに彩度を抑えたインクで描かれたラインナップには、一番人気を誇ったポンティアックGTO(GeeTOタイガー)、フォード・マスタング(2+2ファストバック)、そしてなによりダッジ・チャージャーが揃い踏みとなった。

1966年はそれまで市民の目にめったにふれることのなかった向かうところ敵なしの怪物・426ヘミエンジンが426ストリートヘミとして公道に降り立った最初の年でもある。もちろんその心臓はしっかりとMPCチャージャーに埋め込まれたが、このMPCチャージャーは前年、amtバッジに縛られて世に出たダッジ・コロネットの一部金型を実車と同様に受け継いで生まれたキットでもあった。

結果として’66コロネットはアニュアルキットとして誕生する機会を逸したものの、そうした複雑ないきさつをくるりと覆してコストも省きつつ、まったくフレッシュな新顔として若い会社のスクリメージライン(アメリカンフットボールにおける戦列)に加えるジョージ・トテフの手腕はまことに鮮やかというほかなかった。

またMPCキットの箱の側面には、MPCに移籍を果たしたおなじみバド・アンダーソン(連載第7回、第14回、第20回などを参照のこと)がコメントのみならず笑顔で姿をあらわした。ダッジ・モナコやポンティアック・ボンネヴィルといった(マッスルカーとしてのアピールを欠く)一部フルサイズカーにおいて彼は「The MAN from M.P.C.」を名乗り、当時流行していたスパイ・アクションもののシークレットエージェントを気取ったコスチュームプレイまでしてキットをアピールした。

実際そうしたキットには、amt譲りの3イン1のひとつとして、英国ドラマ『殺しのライセンス』ばりのモーゼルC96やライフル、車に内蔵する隠しデバイス、黄金のインゴットに見立てたパーツなどが盛りだくさんであった。

劣勢を否定できないジョーハンの次なる一手は…?
ジョーハンはといえば頼みのクライスラー、プリマス、キャデラック、AMCランブラーといった顔ぶれを引き続き手がけ、ここに期待のAMCマーリンのキットが加わった。1940年代のナッシュ・アンバサダーがモダンになって甦ったようなファストバック・シルエットを持つマーリンは、AMCの経営陣がそう祈ったように、垢抜けない平凡な経済車メーカーというイメージからの脱却を図った1台だった。

この思いは、時の勢いを得た駿馬が欲しいジョーハンにとっても同じだったかもしれない。結果としてマーリンがそうならなかったにせよ、ジョーハンはAMCのライセンスを固く守ることで、2年後にやってくるAMCジャベリンの誕生に立ち会うことになる。

ともあれジョーハンのマーリンが加わったことによって、市場はさながら全模型メーカーを挙げたファストバック・ブームの様相を呈した。

すべてを俯瞰すれば、1966年のアメリカンカープラモの展開は総花的(全員に花を持たせるやり方)といっていい動きをみせた。アニュアルキット化された範囲はまことに広く、ライバル同士である各社はぶつけ合い・つぶし合いではなく、ライセンスの排他性は残しつつも互いに融通し合う関係の模索に手をつけはじめた。熱心なファンはここに「すべての車が模型になる」夢を観た。

もちろん現実は、これほど広範なカバレッジをもってしても漏れるものがあったのだが、それは前述したオールズモビルやダッジ・コロネット、本連載第21回で取り上げたシェビーII/ノヴァ、amtがキット化してしかるべきシボレー・シェベルSS396といったところで、そうした不在も一度夢を観た長い目でみれば、このホビーの後世を生きるファンとメーカー有志へのホットな宿題となった。

1966年式のオールズモビル442 W-30は1998年に当時のAMTアーテルがみごと精密にキット化を遂げ、シェベルSS396は他でもないジョージ・トテフ自身がリンドバーグ/クラフトハウスの名の下、同じ1998年にキット化を果たした。30年以上もの長き歳月がそのあいだに横たわったとはいえ、1966年はファンにとってマイルストーン・イヤーとして永遠に記憶され続けるだろう。

1960年代、アメリカが足元を取られた泥沼はカープラモにも無縁ではなかった…
最後に奇妙なことを問うようだが、読者諸兄は10歳の頃にプラモデルの愉しみに目覚めた少年が、18歳になるまでプラモデル趣味を諦めずに継続する可能性についてどのようにお考えだろうか。

1958年、amtとSMPが足並みをそろえて一斉展開したモダンなワンピースボディーをそなえるアメリカンカープラモ(アニュアルキット)の誕生とファンの獲得から8年、それが1966年という年だった。さまざまなデータから概算してこの年18歳に達したアメリカ人男性はおよそ6百万人あまり。そのうち何人がアメリカンカープラモ趣味を諦めることなく愉しみ続けていたかをまずはみなさんなりに想像してみてほしい。

少なからぬアメリカンカープラモ・ファンがこの年、徴兵されたのである。1966年の徴兵者数は38万2千人、第2次世界大戦以降最大規模に達した。ベトナム戦争のキーマンのひとり、ロバート・マクナマラ国防長官(当時)が「この戦争にアメリカは勝利できないかもしれない」と考えはじめたのは1966年末のことだったという。

アメリカンカープラモの有力な歴史家のひとり、ティム・ボイドはその著作のなかで「1966年のamtラインナップのみごとさには驚嘆した」「デザインの統一された1966年のパッケージは10フィート先からでもひと目でわかる印象強さがあった」と述べている。

ひどく感傷的なことを書くようだが、本当なら10フィート先からこのみごとなラインナップに歓声をあげながら駆け寄っていくはずだった若者たちが、そこから心ならずも遠ざかっていく者たちへと変わってしまったのだ。そのなかにはこの年を境に、二度とアメリカンカープラモを手にすることができなかった者たちも数多くいたはずである。

数字の上でもアメリカンカープラモ(アニュアルキット)は1966年から1967年にかけて、はっきりと需要の落ち込みを経験した。

photo:羽田 洋、畔蒜幸雄、秦 正史

注目の記事
注目の記事

RANKING