コラム

親子2代で受け継ぐ63年。1959年式「ボルボ PV544」の維持事情と、新車以上の額を投じてレストアを決断した真意【愛車と原体験】《LE VOLANT LAB》

父との時間とミニカーが育んだクルマへの情熱

原体験がその後のカーライフに大きな影響を及ぼすように思えてなりません。今回取材した呉秀男さんの愛車は、お父様から受け継いだ1959年式の「ボルボPV544(米国向けモデル)」。およそ63年、親子2代で大切に所有してきた個体です。

1台のクルマとの出会いが、その人の人生を大きく変えたり、決定づけることがしばしばあります。今回取材した呉さんもそんなおひとり。まさに「一生モノの愛車」と人生を歩んできた呉さんに、愛車であるボルボPV544についての想いを伺いました。
【画像29枚】父子2代で63年、走り続ける1959年式ボルボPV544

1988年に車検が切れたままの状態で15年間、呉さんが受け継いでからは13年間、自動車税を払い続けナンバーを維持。2003年4月に車検取得。公道復帰を果たしたという(ナンバーはご本人の希望でそのまま掲載)。

―― 呉さんがクルマ好きになった「原体験」は何でしたか?

クルマが好きになったのは小学生の頃だったと記憶しています。父が集めたミニカーを勝手に持ち出し、まるでラリーカーのようにボンネットを黒く塗ったり、ホワイトリボンのタイヤを黒く塗ったりして遊んでいました。今となっては貴重なミニカーも含まれており、ちょっともったいないことをしましたね(苦笑)。

私が幼い頃、周囲の同級生の間でクルマ好きはいませんでした。友人とクルマの話をするようになったのは大学生になってからです。クルマとの関わりは、もっぱら父親とともに過ごす時間のなかで育まれたものが中心です。当時愛読していたのは「カーグラフィック」誌です。それ以前は、自動車雑誌に触れる機会そのものがあまり多くなかったんです。

―― 呉さんの現在の愛車について聞かせてください

所有するクルマは2台です。メインの愛車は1959年式ボルボPV544です。このボルボPV544は、1963年12月、私が13歳のときに父が中古で購入して以来、およそ63年間ずっと所有しています。父が手に入れた当時は、自家用車を持つ家庭自体が少なく、私の小学校の入学式にもクルマで乗りつけていました。校門のなかまでクルマを入れてしまうほどで、それくらい持つ人が少ない時代だったと記憶しています。

1959年式ボルボPV544オーナーの呉秀男さんと、愛車である1959年型PV544(ナンバーはご本人の希望でそのまま掲載)

走行距離は、オドメーターが「10万kmで1周して0kmに戻る仕様」のため正確な数字は分かりません。あくまでも推測ですが、通算でおよそ26万kmだと思います。父が他界したあと、名義変更をして私自身が運転するようになってからの走行距離はおよそ6万kmです。

もう1台は、足車として使っている2003年式BMW525 Mスポーツ(E39型)です。E39型の5シリーズは、日本人デザイナーである永島譲二さんがデザインを手がけたクルマとしても知られており、コンパクトにまとまったスタイルが気に入っています。

―― 大正4年生まれの父が遺した戦前・戦後の写真を受け継ぎ、そして……

1915年(大正4年)生まれの父もクルマが好きで、中学生の頃、買ってもらったカメラを片手に、戦前の溜池周辺を走る外車やバスを撮影していたそうです。その写真の一部は「カーグラフィック」誌の特集号にも使われており、今や戦前の貴重な記録となっています。

父の写真を見て感じるのは、「クルマそのもの」よりも「クルマと一緒に写り込んだ当時の街並みや人々の営み」にこそ価値があるということです。当時の赤坂の街並みにクルマが写っている写真は、戦前の流行のファッションや街の姿まで伝わる貴重な資料でもあります。

スウェーデン国王来日時、オーナーズクラブから国王に記念品を贈呈したときの模様を記録したル・ボラン誌の記事。

特に印象的なのは、人力車の運転手が、雨の日にタクシー乗り場に並ぶ客を恨めしそうに見ている一枚です。雨の日に人力車に乗ると濡れてしまうけれど、タクシーならその心配がない。当時の世相や人々の営みが垣間見えた気がします。

父が他界したあと、これらの写真は私が受け継いだのですが、撮影した写真やネガ、プリントをこのまま家に置いていたらいつか処分されてしまうかもしれない、という思いから、しかるべき人に引き取ってもらうことにしました。以前から父とは交流があった伊東和彦さんに託しました。伊東さんは自動車専門のフリーランス・キュレーターをされていて、将来、どこかで活用できるように古い6×6判フィルムなどのデジタル化をしてくださいました。

63年前、雪の日にやってきた「古臭いクルマ」

―― お父様が63年前に「ボルボPV544」を選んだ理由をご存知ですか?

父がボルボPV544を手に入れる前は、1954年型フォルクスワーゲン・タイプ1(オーバルウィンドウ)に乗っていました。箱根方面へ出かけたときにギアが抜けるトラブルに悩まされ、車体の錆も進行していたため、次のクルマを検討することになったそうです。

そのきっかけとなったのが、当時「モーターマガジン」誌(カーグラフィック創刊前)に掲載されていた、故・小林彰太郎さんによる十国峠・箱根周辺でのボルボPV544のロードインプレッションの記事でした。その記事で紹介されていたのは、漫画家の故・佃公彦さんが所有していた、父親のクルマと同じ1959年式のボルボPV544だったんです。一見古めかしい箱型セダンのスタイルでありながら、当時のMGAに匹敵する加速と性能を持つ5人乗りファミリーセダンという内容に強く惹かれ、父はボルボPV544を探しはじめたと聞いています。

ボルボPV544を購入するにあたり、富士スピードウェイの競技運営に関わっていた父は、当時六本木にあった「黒崎内燃機」(当時ミニクーパーなどで活躍していた会社で、後に帝人ボルボが創業した場所でもあります)の方と親しく、その方を通じて静岡にあったクルマの情報を得たと聞いています。

世界で初めて標準装備された3点式シートベルトを手に取るオーナー。

購入時の価格は600,000円だったそうです。今でこそ良さが理解できますが、このとき私は13歳(中学1年生)だったこともあり、ボルボPV544に対して「古臭いクルマ」という印象を持っていましたね。

もしボルボPV544が見つからなければ、父はメルセデス・ベンツ170D、オペル オリンピアレコルト、パナールPL17、サーブ96などの車種も検討したそうです。当時、いすゞ・ベレットの新車が60万円くらい、ボルボ アマゾンはおよそ160万円でした。ボルボP1800とトヨタ2000GTが同価格帯(約220万円)だった時期です。父が存命の頃、トヨタ2000GTはそれほど高騰していなかったのですが、今となっては……。

―― 63年前、ボルボPV544が家にやってきた日のことを覚えていらっしゃるとか

父のボルボPV544が納車されたのは、12月の雪の日でした。寒い日でしたが、外まで観に行ったことを今でも覚えています。ボルボPV544はヒーターが非常によく効いたことが今も強く印象に残っています。当時の住まいは藤沢(神奈川県)でしたが、納車後、数カ月間は静岡ナンバーのまま乗っていたことを憶えています。

現在のナンバー(神5)への登録替えを行ったのは1964年4月でした。当時のナンバーには現在のような希望ナンバー制度がなかったので、窓口で順番に付番される仕組みだったんです。窓口の担当者に事情を伝えて順番を融通してもらい、希望していた番号(90-90)を手に入れることができたんです。あと数カ月早ければ、番号の途中に区切りの横棒が入らない、よりすっきりとした表記のナンバー(9090)になっていたはずなので、これは今でも少し心残りです。

ナンバーの「神5」は、神戸……ではなく「神奈川5」だ(ナンバーはご本人の希望でそのまま掲載)。

父から託されたバトンと、15年越しの公道復帰

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photo=松村 透/T.Matsumira

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