コラム

冬こそ部屋で「メイヤーズ・マンクス」を学ぶ! 当時の雑誌や模型で振り返るヒストリー【デューンバギー恍惚日記】第11回

マンクスの歴史

【デューンバギー恍惚日記】第10回に続き、「メイヤーズ・マンクス」のストーリーをお届けしていこう。2017年末にレストア完了してから約8年、いくつかの改良作業を施しながら維持、日本に於けるこの種のクルマとしてはかなりの距離を実走行してきた現在、車輌自体がとても安定した状態となり、正直「ネタ不足」の感も否めない。

そんな時こそ座学も良いかと思うので、今回は自分なりのやり方で、マンクスというクルマの歴史をもう一度おさらいしたい。お付き合い頂ければ幸いです。

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日本で最初にマンクスを取り上げた雑誌記事

自分が知る限り、日本国内の自動車雑誌で、最初にマンクスを本格的に取り上げたのは、「CARグラフィック」誌の1967年2月号だ。当時の雑誌は概ねモノクロだったので、当該記事もそれに倣うが、6ページも割かれた濃厚な内容である。マンクスに興味のある方にはご一読をお薦めする。

取材チームは「ロード・アンド・トラック」誌協力のもと、1966年にカリフォルニアの同社へと赴き、ブルース・メイヤーズ御大自らによる巧みな荒地ドライブの様子やライターのインプレッションが詳細に記述されている。テキストはかの山口京一さんである。

記事中、興味深い点のひとつが、荒地走行時にタイヤ空気圧を極端に下げるのだが、その具体的な数値が記されていること。それによると通常(舗装路など)時は「前0.8:後1.1」であるのに対して、「前0.3:後0.42」まで下げる(砂丘を走る場合は更に下げる。単位はkg/cm2)のだという。当時クロスプライ(バイアス)タイヤを履いていた空冷VWビートルの奨励空気圧は「前1.8:後2.0」程度であったから、マンクスに於いては、舗装路走行時の空気圧ですら半分程度しかないわけだ。

往時の日本の自動車誌。左:メイヤーズ・マンクス掲載の「CARグラフィック」1967年2月号、右:EMPI imp掲載の「CARトップ」1969年3月号。

ラジアルに置き換えて0.2ぐらいずつ高く見積もっても、舗装路走行が主である自分のマンクスは「前1.0:後1.3」が適正ということになる。この辺りはいずれ試してみたいポイントだ。

山口さんは記事の結びとして、「1966年は、幸運にもメルセデス300SLR、コブラ289、427、シェルビー350GT、フラヴィア・ザガートなどの高性能車に乗る機会に恵まれたが、いまだにその魅力が忘れられず、手に入れたいのはメイヤーズ・マンクスだ」とお書きになっている。マンクスのプリミティブな魅力が伝わってくるテキストに加え、当時の画像も貴重なものだと思う。

EMPI impの登場とコピー品の氾濫

上述記事の取材が行われた1966年、メイヤーズ・マンクスは1964年の発売から2年を経てビジネス的に堅調だったが、同時にこの時期から、コピー製品が恐ろしい勢いで増殖していった。

VWチューナーとして高名であり、マンクスに先んじてシートメタル製ボディのデューンバギー「EMPI スポーツスター」を発売していたEMPIが、マンクス人気に刺激されて発表したFRP製ボディの「EMPI Imp(エンピ・インプ)」は大柄かつ曲線的なフォルムでマンクスとは一線を画すデザインだったが、マンクスと全く区別がつかないようなコピー品の氾濫がマーケットを徐々に腐敗させて行った。

「CAR and DRIVER」誌1969年8月号の表紙裏に掲載された EMPI imp(エンピ・インプ)の広告。マンクスよりも大柄でラグジュアリーなムードが特徴。

この状況を受けて、マンクスは1968年3月から金属製のレジストレーション・タグ(プレート)をボディに貼り付ける策に出た(これ以前に生産された約1,500台は「Pre-tag(プレタグ=タグ以前)」と呼ばれ、初期モデルとしてのステータスがある)。

EMPI impの国内雑誌記事

前回も触れたが、1969年頃にヤナセはEMPI Impを試験的に輸入しており、この時期、国内自動車誌で何度か取り上げられている。そのひとつが表紙に同車をフィーチャーした「CARトップ」誌1969年3月号。ヤナセ協力のもと、大久保 力さんが砂浜でインプレッションを行ったモノクロ3ページの記事に、当時アメリカで発売されていたFRP製ボディの様々なバギーを集めた2ページを加えて特集を組んでおり、デューンバギー市場が瞬く間に爛熟した当時の様子が伝わってくる。

元来レーシング・ドライバーだけに大久保さんのドライビングを捉えた写真はいずれも非常にワイルドで見応えがあり、タミヤ1/18チャレンジャー・シリーズ同車種の箱絵モチーフと思しきカットもある。

本国アメリカの雑誌記事と最初期マンクス

マンクスが本国アメリカで初めて本格的に取り上げられた雑誌記事は、「HOT ROD magazine(ホットロッド・マガジン)」誌1966年8月号である。表紙はブルース・メイヤーズ自身が運転するマンクスがジャンプしている写真で有名。

ここでブルースが乗っているマンクスを見ると歴然なのだが、フロントフードなどの形状が後のポピュラーなマンクスとは全く異なっている。これは前述「Pre-tag(プレタグ)」の中でも「Monocoque(モノコック)」と呼ばれる最初期12台の特徴で、実はこの12台はFRP製ボディにスチールのサブフレーム的部材を埋め込んだモノコック構造を持ち、VWビートルのサスペンションやドライブトレーンを組み付けてはいるが、シャシーパン自体は使用していない。

当初はこのモノコック・ボディの製造が計画されていたが、製造に手間がかかり過ぎるため、VWビートルのシャシーパンをショートホイールベース化して使用する方式に設計変更されたのだ。結果としてマンクス愛好家のコミュニティでは、この12台は別格的に稀少な存在として取り扱われている。

「HOT ROD」magazine誌1966年8月号表紙。ブルース・メイヤーズ自身が運転する最初期のマンクス(モノコック構造)がジャンプしている有名な写真。

話をHOT ROD magazine誌に戻す。この1966年頃には1932年型フォード(デュース)に象徴されるような戦前型ベースのホットロッドの流行が一段落していたことが特集から理解できる。かのエド・ロスは四輪ショーロッドの製作を辞めてバイカー市場に活路を求め、ジョージ・バリスはカスタムカーからハリウッド劇中車ビジネスに転身、この年、初代バット・モービル(リンカーン・フューチュラの改造)をデビューさせている。

そんな時期にあって、マンクスに代表されるFRP製ボディのデューンバギーの流行は、ホットロッドやカスタム系の雑誌媒体にとって願っても無い好材料だったと言える。

デューンバギー人気を示す往時のアメリカの雑誌。左から「ROAD TEST」1969年春号、「CAR and DRIVER」1969年8月号、「HOT ROD」1970年9月号。

モータースポーツに於けるマンクス

元来マンクスは、デューン(砂丘)を、ジープやホットロッドで走り回る連中からインスピレーションを受けているだけに、オフロード・レースを視野に入れて開発されている。

ブルース・メイヤーズは、モータースポーツに於けるポテンシャルをアピールする意図から、1967年4月、コ・ドライバーのテッド・マンゲルスと共に、自身所有のマンクス、通称「OLD RED(オールド・レッド)」を駆り、メキシコの「バハ・カリフォルニア」ラパス(La Paz)〜ティファナ(Tijuana)間の過酷な1,339kmを34時間45分で走り抜いた。

これは当時ホンダ製バイク(CL72)が持っていた記録を5時間以上短縮した新記録として大々的に報じられ、NORRA (National Off-Road Racing Association)が、「メキシカン1000」(後のバハ1000)を開催するきっかけとなった。

「CAR LIFE」誌1968年11月号特集一部。ショートホイールベース化とキャスター角の減少によるオフロード走行時のバンプ回避の有効性を説明している。

1967年10月に開催されたメキシカン1000では、ゼッケン10を付けたメイヤーズ・マンクスの赤いワークスカー(ヴィック・ウィルソン/テッド・マンゲルス組)が27時間38分で見事に優勝、ブルース・メイヤーズ自身もゼッケン1のマンクス、通称「Goldie(ゴールディ)」を駆って健闘し、スポーツ・イメージを高めることに貢献した。

近年、オリジナルのGoldieをモチーフにGoldie 2が制作され、NORRA主催オフロード・レースのヒストリック部門に出場している。

当時のアメリカ製プラモデル・キット

雑誌同様、往時のデューンバギー人気を映しているのが玩具や模型の類だ。ここでは本国アメリカ製プラモデル・キットを改めてご紹介しておく。砂丘やビーチといった西海岸の環境とホットロッド的着想の産物と言えるメイヤーズ・マンクスに相応しいのは、同じカリフォルニアに在った「Revell(レベル)」社だと思うが、実際のところ同車をプラモデル・キット化したのはデトロイトとの関係が深いミシガン州トロイの「AMT(エーエムティー)」社だった。

AMTは1968年に1/25スケールでマンクスをキット化。キットNo.は「T299」で成型色はイエロー。カスタム・パーツがふんだんに付属し、ストリート、バハなど4仕様から1仕様を選んで組める贅沢な体裁となっている。前述の通り、前年の1967年にメキシカン1000での優勝などで大いに注目を集めたことがキット化を後押ししたのだろう。

AMT「Meyers Manx」(初版1968年)の箱正面イラスト。ストリート仕様のエクステリアにリブタイヤを組み付けた仕様の絵柄。

対してマンクスをAMTにとられたRevellは、従来からあったEMPIとの繋がりから、翌1969年にEMPI impを1/25スケールでキット化する。キットNo.は「H-1274」で成型色はメタリック・レッド。後発となっただけに、こちらもVWフラット4の他にシボレー・コルベアのフラット6のパーツも付属するなど凝った内容だ。

これら2種の他にも「MPC(エムピーシー)」社からはディーン・ジェフリーズの「Kyote(コヨーテ)」やディック・ディーンの「Shalako’(シャラコ)」など、FRP製ボディのデューンバギーが数多くキット化され、1970年代前半まで高い人気を集めていた。

オリジナル・マンクスの終焉

短期間に過剰なまでに膨れ上がったデューンバギーの人気は、上述したように本来の立役者だったメイヤーズ・マンクス擁するB.F. Meyers & Co.(B.F. メイヤーズ)社のビジネスを窮地に追い込んでいった。

同社はよりコンペティション寄りの「Tow’d(トウド)」や、GT寄りの「SR2」なども市場投入するが、主力であったマンクスのコピー品氾濫による商業的打撃は大きく、更には模倣業者との訴訟で敗れ、そのデザインが知的財産として認められなかったことから、1970年にはブルース・メイヤーズ自身が同社を離脱、翌1971年、同社はその活動を停止した。

その後1999年にブルースは新たに「メイヤーズ・マンクス社(Meyers Manx, Inc.)」を興して活動再開、新型ボディ「Manxter(マンクスター)」の開発を経て、オリジナル・マンクス(1960年代末以降の「マンクスⅡ」)のボディも復刻。再び好事家を中心に人気を呼んだが、2020年12月、ブルースは会社を投資家グループ(Trousdale Ventures)に売却し、翌2021年2月、94歳で逝去。

新生メイヤーズ・マンクス(Meyers Manx, LLC)社は、オリジナル・マンクスの復刻版展開に加えて、EV版「メイヤーズ・マンクス 2.0 Electric」の開発を進めており、SNSでの華やかなアピールとも相俟って今再び大きく注目を集めている……。

新生メイヤーズ・マンクス(Meyers Manx, LLC)社が開発を進めてきたEV版「メイヤーズ・マンクス 2.0 Electric」の先行50台はデリバリー間近である。

今回はお勉強の時間でした。季節は本格的に冬到来ですが、寒くてもマンクスで元気に走りたいです。次回もお楽しみに!

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【画像25枚】人気の盛り上がりとコピー品の氾濫、そしてモデルキットなどについて学ぶ!

山田剛久

AUTHOR

1962年、富山県生まれ。約20年の出版社勤務を経てフリーに。自動車、模型、モータースポーツ関連のニッチ記事専門ライター兼編集者として、ごく稀に重宝される。ホットロッド/カスタム、1930〜’70年代の内外モータースポーツ、古い自動車模型や玩具が専門分野。「多摩川スピードウェイの会」会員。

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