山中にひっそりたたずむ石組みのトンネル
『伊豆の踊子』や『天城越え』など数々の文学作品の舞台となった下田街道。ここは幕末の志士・吉田松陰が密航を企て、ひそかに越えていった峠でもある。ひとたび旧道に分け入れば、さまざまな人の思いに触れることができる。
伊豆というと海ばかりをイメージしがちだが、そもそもの成り立ちは富士火山帯の上に形成された大きな山塊なのである。日本百名山にも数えられる天城連山の最高峰、万三郎岳は標高が1406m。北にそびえる箱根の山々と比べても決して見劣りはしない。
そんな山として伊豆半島を実感できるのが下田街道である。
修善寺からまっすぐ南に下っていくと、国道が136号から414号に切り替わったあたりから、あたりの風景は大きく変わっていく。のどかな田園風景は消え、一気に山深くなっていくのだ。それをもっとも強く印象づけるのが、天城峠の旧道を上りきったところにある天城山隧道だ。
「昔、天城峠を越えるときは、麓で待って、ほかのクルマと一緒に登っていったものさ。あの頃は暗黙のルールがあって、トンネルの中で対向車と出会ったら、台数の少ない方が後退する決まりになっていたんだよ」
こんな話を聞かせてくれたのは、軽トラでイノシシ狩りに来ていた年配の猟師さんだった。当時のトンネルには照明もなく、真っ暗な中を延々とバックするのはとても心細かったという。
下田街道における最大の難所、天城峠にトンネルが完成したのは明治37年(1904年)。全長450mのトンネルはすべて切石で組まれ、現存する石造トンネルでは最長である。
天城峠にトンネルができると、河津や下田の温泉地を訪れる湯治客が徐々に増えはじめ、それを目当てに旅芸人も下田街道を行き来するようになっていく。旧制第一高校の2年生、当時19歳だった川端康成が、湯ヶ島で14歳の踊り子と出会い、ともに下田まで『三泊四日』の旅をしたのはは大正7年(1905年)のことである。