1995年〜1998年 サンキュー
1994年のこと、バド・アンダーソンが亡くなった。亡くなるほんの2年前、有志によって設立されたインターナショナル・モデルカー・ビルダーズ・ミュージアムのホール・オブ・フェイムに、最初の殿堂入りを果たした矢先のことだった。(彼の活躍については本連載第14回・第20回に詳しい)
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かつての盟友を突然失い、リンドバーグ/クラフトハウスのジョージ・トテフがどれほど落胆したかは想像に難くない。amt副社長という椅子を蹴って、ディック・ブランストナーとMPCを設立したあとも、気がつけばかたわらにあって仕事を手伝ってくれた友人である。1966年の3イン1キットに、当時流行のスパイカーを取り入れようというアイデアが出たときは、「ザ・マン・フロム・MPC」と名乗り、勇躍スパイのコスプレ・フォトセッションにこころよく応じてくれたものだった。(本連載第23回参照)
深い失意のときでさえ、ジョージ・トテフの奮闘は続いていた。
1/20スケール路線からの退却
リンドバーグの販売成績は、お世辞にも順調とはいえなかった。
1990年代のプラモデル市場がたいへんな苦境にあったことは、本連載の過去の記述によらずとも、ある程度年かさの読者にとっては実感として周知のことと思われる。ユーザーの年齢層はじわじわと高くなり、若い新規参入者は少なく、メーカーは採算のとれる事業の厳しい精査と選定を迫られていた。そんななか、リンドバーグは新規開発のリソースを、1/25スケールや1/24スケールではなく、より冒険的な1/20スケールに大きく割く決断を下した。
1/20スケールは、確かに合理的なサイズだった。1/1実車のプロポーションをより忠実に再現でき、細いところをより細く、微細な箇所が小さくなりすぎないことでディテールにめりはりと精密さが生まれ、追加工作も容易である。完成後の満足感はボリュームに比例し、(大きな声ではいえないが)40の境を越えたあたりではっきり自覚される眼の衰えにもやさしい。新しいスケールの選定としてはよくよく考え抜かれたものだった。
ジョージ・トテフが1/20スケールにこだわったのは、業界の誰よりも豊富な知見に根差した判断、あるいは「こうあるべき」との理想主義からとは言い切れない側面もあった。高利益率の恒常的な獲得・維持という現実的な課題である。
リンドバーグ/クラフトハウスの親会社であるRPMは、子会社に対して自由裁量を大胆に認める社風ではあったが、高収益性の維持にはきわめて厳格である旨を公言していた。ジョージ・トテフにとってもこれは避けがたく重いプレッシャーだった。
MPCを率いていた頃の彼は、市場やメディアの動向をいち早く見きわめ、権利関係に鋭く切り込み、売れ筋を決して逃さない「チャンス・オペレーション」的な手法で数々の成功をおさめてきた。大当たりに次ぐ大当たりで彼が慢心していたと言いたいわけではない——むしろ彼はそのやり方に限界があることを深く理解し憂慮していたはずである。瞬間的なヒットを狙って重ねる奇跡の具現よりも、安定的に利益を生む「構造」を求め、真剣に熟慮を重ねていたのだろう。
1/25スケールは、1960年代から1970年代にかけておびただしい数の製品ラインナップを構築したことで、揺るぎないデファクトスタンダードとなっていた。これに較べれば、1/20スケールは「合理的ではあるが、新奇すぎた」ようだった。加えてリンドバーグの1/20スケール製品には、スケールだけでなくテーマの選択にも懐古的な要素が一切なく、1990年代の最新車種を積極的にキット化するというアニュアルキット的な発想につらぬかれていた。

1996年、リンドバーグからリリースされた1961年型シボレー・インパラSS(品番72163)。アニュアルキット時代のamt、それもジョージ・トテフ在籍時のamtにはハイパフォーマンスカー志向がほとんどなかったと言ってよく、1961年ともなればキットにエンジンが付くようになって日も浅く、409という怪物的な市販ユニットの魅力を打ち出すことなど考えも及ばなかった。amtの仲間との課外活動が愉しいものであるほど、業務のつまらなさがジョージ・トテフをMPCの構想に走らせたとみるのは妥当かもしれない。
おそらくこれは新しい世代に向けたメッセージでもあったのだろう。1960年代・1970年代の名車を懐かしむ世代に頼らず、当時のティーンエイジャーにプラモデルの愉しさを伝えようとする試みだった。しかし、それは結果的に、どの層からも受け容れられなかった。
プラモデルに見向きもしないティーンエイジャーは、すでにビデオゲームという強烈なライバルの虜になっていた。きらびやかでスピード感があり、実体はなくとも結果がすぐ手に入るインタラクションが日常になった彼らにとって、プラスチックを削り、塗装し、組み立てるという行為は、もはや時代遅れのものに映っていた。
かといって、1960年代・1970年代の黄金期を知る愛好家たちも、馴染みのない1/20スケールを支持しようとはしなかった。彼らには30年の長きにわたりこつこつと構築してきた独自のコレクションがあり、プライドと諦めきれなさが衛士となってゲートを固めていた。結果として、リンドバーグの1/20スケール戦略は「若い世代には無視され、古い世代には拒絶される」という、最悪のかたちで着地することになる。
1/20スケールの市場が少しもあたたまらない現実を前に、1990年代も半ばを過ぎた頃、リンドバーグ/クラフトハウスは1/25スケールの新規開発に回帰することを決定する。この頃アダルト向けの市場を席巻していたノスタルジア消費の傾向は当然ジョージ・トテフも熟知しており、モノグラムが’64ポンティアック・GTO、レベルが’64フォード・フェアレーン・サンダーボルト、AMTアーテルが’62シボレー・ベルエア409を選定した仔細な理由など、彼にしてみれば30年も前から知悉した領域の話でしかなかった。
もっともっと効果的な、市場があっと歓声を上げるようなアイテムチョイスをしてみせよう。時間はまだある、まだ間に合う……
1/25スケールへの転進
かくしてリンドバーグの1/25スケール ’61シボレー・インパラSS409は1996年、天文台が観測できない角度から突然降って湧いた彗星となって市場へと斬り込んだ。仕様の異なるふたつの’64ダッジ・330(ラムチャージャーズとカラーミーゴーンII)がその露払いと太刀持ちを務めていた。
1961年当時amtが手がけたアニュアルキットのインパラとはなにもかもが違っていた。ダッジ・330を含め、すべて完全新金型である。
1959年開業のデイトナ・インターナショナル・スピードウェイにおいてシボレーが栄冠をつかむために設計したインパラSSは、amtがキット化した無印インパラとはまったくの別物、カタログスペック上は360馬力といいながら、実際には400馬力超を叩き出す409エンジンは、市販ユニットであること自体がなにかの間違いであるかのような高性能、サスペンションは当時のフルサイズ・フラッグシップにあるまじき硬さに設定され、重量バランスをストックカー・レーシング向きに改善するためバッテリーをトランクマウントに変更するといった始末。リンドバーグのインパラSSはこうした「やりすぎたシボレー」を忠実に再現していた。
露払いと太刀持ちとは表現したものの、このふたつのスーパーストック・エリミネーターにそれぞれ付属する426レーシングヘミと426マックスウェッジIIIにはこれまでにない精密さがそなわっており、実車の活躍から30年余りを経たふたつのテーマに新たなインパクトをもたらすには充分すぎるほどであった。
いずれのキットもヘッドランプの透明化、サスペンションの詳細化、ドアハンドルもワイパーも別体化、往時のamtアニュアルキットが生産性のために諦めたポイントがことごとくモダンにアップデートされていた。amtにおいてすべてを諦めたのもジョージ・トテフなら、リンドバーグにおいてすべてをやり直したのもまたジョージ・トテフであった。
ジョージ・トテフの名はおろか存在も意識しなかった市場は、ことが1/25スケールに及ぶに到り、はじめて絶賛の声をあげた。なんだこれ! すごい! どうしちゃったのリンドバーグ——
1997年、RPMはリンドバーグ/クラフトハウスを売却した。自由を許したにもかかわらず、期待する収益を維持できなかった子会社への、じつにRPMらしい、容赦のない裁定であった。
かくして1996年発売のリンドバーグ・インパラSSと330スーパーストックは、RPMのクレジットが入った最後の「新製品」となった。
ごめんねバド、うまくいかなかったよ。
新キットのリリースと名声の陰で
市場の冷淡さがメーカーを葬りもし、逆に好評がメーカーを活かしもする。RPMの大きな傘をはずされながらも、リンドバーグ/クラフトハウスは市場に抱きとめられるかたちで存続した。’61シボレー・インパラSSはスーパーストック・バージョンに模様替えしてさらなる支持を獲得し、ホビーの流通大手として実力のあったロイド・インターナショナルがリンドバーグの支援に手を挙げたことで大きな混乱は回避された。
同様の路線にまだまだアイデアをもっていたジョージ・トテフは、その製品化に向け、手を休める間もなく仕事に打ち込んだ。30年前と少しも変わることなく働く彼は、どことなく寡黙になったようだった。
リンドバーグのバッジをつけた1/25スケールの新金型製品は粛々と登場し、そのたびに市場の喝采を浴びたが、最初の3タイトルに続いた’64プリマス・ベルヴェディアには、ごくわずかだが製品仕様に「動揺」が見てとれた。さらに続いた’67オールズモビル・442には初回出荷分に思わぬパーツのエラーが生じたが、市場はRPMからの放逐という深刻な事情をまるで意識しないまま、「生まれ変わったばかりでは無理もない」と鷹揚に受け止めて、次なる新キットに高い期待を寄せた。
この頃、アメリカンカープラモ市場では、このホビーの大いなる歴史を詳細に振り返る「批評」の動きが生じていた。1960年代はじめに活躍したバド・アンダーソンの功績が、名声の殿堂入りというかたちで顕彰されたのもそうした動きのひとつであったし、雑誌で長らくアメリカンカープラモについて健筆を振るい続けたビル・コールターやボブ・シェルトン、テリー・ジェシーといった面々が、詳細にわたる「通史」を書きはじめ、星の数ほどもある製品群をプロダクト・レジストリーにまとめ上げる大事業に挑んだ。
そうした著述の片隅にあって、ジョージ・トテフの模型人としての人生は順風満帆、勝利の連続であったと、無邪気に評する一文はいまも後を絶たない。
※今回、AMTアーテル製1/25スケール「’68エルカミーノSS396」、「’63シェビー・インパラ」(モデルキング版)、「1995 GMCソノマSLS」、レベル製1/25スケール「マスタング・マッハⅢ」の画像は、アメリカ車模型専門店FLEETWOOD(Tel.0774-32-1953)のご協力をいただき撮影しました
※また、レベル製1/25スケール「ラリー・モーガンズ スーパークリーン・オールズ」は読者のくぼさんのご協力をいただき撮影しました。
※リンドバーグ製1/25スケール「ラムチャージャーズ1964ダッジ330SS」、amt(ラウンド2)製1/25スケール「ダッジ330スーパーストック(カラー・ミー・ゴーンⅡ)」の画像は、読者のH.W.Geezerさんからご提供いただきました。
ありがとうございました。