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「エドセルはアメリカンカープラモの母である」と断言したら、本連載の読者はギョッとするだろうか――しかしそれは、さまざまな証拠をあらゆる角度から検討してみても、おそらく間違いのない事実である。
エドセルをめぐる月次なジョークはすべていったん置いてから読みすすめてほしい。
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戦前から続くゼネラルモーターズ(GM)のブランド・ヒエラルキーは、デトロイトの競合他社にとっては羨望の的だった。車の価格帯によって適切にハッシュされ、それぞれに最適化されたパワー・装備・イメージによってすべてのアメリカ国民に傘下の車だけを売ることができれば、それすなわち巨大なアメリカ市場を制することにほかならない。
GMはどこよりも先にそうした構えを磐石としていたが、フォードは高価な車にまるで興味をもたないヘンリー・フォード翁の頑なな態度によって、1922年に買収した高級車リンカーンと大衆的なフォードの両極端を固持し、両者の巨大な価格差によって多くの顧客を取りこぼし続けた。
ヘンリーの愛息エドセル・フォードと、時の販売部長であったジョン・R・デイビスは1937年夏、ついに老ヘンリーを説得して中間価格帯の新車開発を許可させることに成功した。そして1938年秋、フォードと部品の多くを共有しながらも、より大きく重い、そして高価な’39マーキュリーがデビューを飾った。
同価格帯のライバルにはオールズモビルがあり、ハドソンがあり、デソートがあった。成績は「それなり」としか形容するよりなく、他社にとってはさほど大きな脅威とはなりえなかった。マーキュリー部門を推進したエドセル・フォード自身、この新型車を「フォード・マーキュリー」と呼ぶ始末で、初期の販促物にはことごとくこの名が躍っていた。
1943年、エドセル・フォードは亡くなった。1945年秋、老ヘンリーは不承不承、エドセルの長男である当時わずか27歳のヘンリー2世に会社の経営権を譲りわたした。誰の目にも力不足と映る新体制に、外部から多くの「実力者たち」が集められた――陸軍航空隊あがりのいわゆる「ウィズ・キッズ」、テックス・ソーントン、ベン・ミルズ、フランシス(ジャック)・リース、ロバート・マクナマラといった元若手将校の一群である。
「われわれグループのノウハウをよろこんで貴社に提供しよう」、叩き上げの将軍たちへ頭ごなしに下命することにいかにも慣れた、こんな尊大な電報をヘンリー2世に打ったのはテックス・ソーントンだった。
いずれも頭脳明晰、不遜なほど野心家で、なおかつ戦争屋あがりの冷酷さを併せ持った彼らは、強烈な権力志向を抱きつつ、自動車およびそのビジネスへの本質的興味を著しく欠くという共通の特徴があった。年齢もヘンリー2世とほぼ同い歳、ここを憂慮した老ヘンリーは、もっと経験豊富で腹芸に長けた年配の経営陣が必要と判断、1946年夏にGMの子会社トップを務めていたアーネスト・ブリーチをフォード副社長の座に据えた。
ブリーチが引き連れたGMあがりのベテランクルーたち——ハロルド・ヤングレン、アール・マクファーソン、ルイス・クルーソーらは、前述のウィズ・キッズらと異なり、GMで練り上げたスタイルをさらに洗練させることで新しいイメージのフォードを作り上げようとした。この2大勢力間の強い緊張関係が、戦後フォード内部の独特の駆け引きを生み出した。

第二次大戦後、若くして社長に就任したヘンリー・フォード2世。背後に見える肖像画は、左が父のエドセル・フォード、右が祖父のヘンリー・フォード。ヘンリー2世は、近年では映画『フォードvsフェラーリ』において、傲慢さと愛嬌を併せ持つ人物として描かれていたのも記憶に新しい。1945年の社長就任後、対外的に初の大仕事となったのは、純戦後型である1949年型各車の発表であった。特に前後フェンダーを完全にボディーと一体化したフォードの新鮮なスタイルとともに、ヘンリー2世の若さに満ちた姿(当時31歳)は、人々に強い印象を与えたのである。
自身の才能への絶対的確信をもって尊大に振る舞うウィズ・キッズにも、歳相応に老獪なるブリーチ一派にも、ヘンリー2世は決して味方しようとはしなかった。あるのはただ、祖父の創り上げた会社をふたたびアメリカのみならず世界最高の自動車メーカーに返り咲かせることの一点のみ。そのためにはなんだってやってみせる、フォードはフォード一族の会社である、ということだった。
1947年に老ヘンリーが世を去ると、社の誰もが頑固な守旧路線を一顧だにしなくなった。フォードはいよいよ拡張あるのみ。恃みはもはや老ヘンリーの鶴声ではなく、綿密な市場調査データに基づく設計である。ここに問題として浮かび上がってきたのが、リンカーンとマーキュリー、そしてフォードの決して小さくない価格差であった。
ここに大きく伸長する中産階級の取りこぼしがある――大衆車フォードからマーキュリー、リンカーンにすんなり乗り換える者はわずか4人にひとり。ところが同じ大衆車シボレーからより高価なGM車にステップアップする者は5人中4人……フォードにとってこのセグメント間の無視できないギャップを埋める製品ラインの策定が喫緊の課題となった。
さまざまなアイデアが多くの人材から発案・提案され、そこに政治がすかさず蛇のように絡みついた。あちらの野心を満たす案はこちらの不満を呼び、両方よしの案はなかなかあらわれない。そのあいだにもリンカーン-マーキュリー-フォード間のギャップは埋まらない。
調査という調査はすでに尽くされていたにもかかわらず、なおもフォードの経営委員会は当時の販売担当副社長であったジョン・デイビスに、中間価格帯の追加モデルに関する新たな「調査」を厳命した。
1952年6月に完成したこのタスクのレポートは「デイビス・ブック」と呼ばれたが、巨大組織の冗長さを象徴するようなわかりきったことだらけのこのレポートが、のろのろとしたマーキュリーの強化計画を経て、ついにはリンカーン-マーキュリー間、マーキュリー-フォード間にそれぞれ「Eカー」と呼称されるストップギャップを新設する計画へとつながっていった。
1955年初頭、経営体制の刷新がおこなわれたことがこの転換を大きく加速させた。アーネスト・ブリーチは新取締役会の会長に就任、後任にはルイス・クルーソーが副社長としておさまり、ロバート・マクナマラはフォード部門のゼネラルマネージャーに、そしてフォード・フランスのゼネラルマネージャー職に就いていたジャック・リースがシムカへの部門売却後アメリカへと帰国することでお膳立てが揃った。
従来の隙間だらけの3部門から一挙に5部門への拡大を進言する大胆なプレゼンテーションがルイス・クルーソーとジャック・リースによってぶち上げられた。
Eカー・プロジェクト、本格始動!
計画の眼目は、3セグメントのストップギャップであること以上に、GMにあきらかに水を空けられている全国販売網の拡充にこそあった。当時フォードの有するディーラーはGMの約半分に過ぎず、マーキュリーはとくに貧弱なありさまだった。
1950年代前半、フォードの比較的高価なモデルはかなり販売好調であったにもかかわらず、リンカーン-マーキュリーの販売網はビュイック・オールズモビル・ポンティアックの中堅3ブランド(年間販売台数は計120万台)の合計に比してやっと1/3の規模にとどまっており、プレゼンターであるクルーソーとリースは「この部門倍増計画がフォードの販売台数を6年間で20パーセント引き上げる」と主張した。
当然反対の声もまた上がり、既存の購買層を新ブランドに移行させる計画は野心的だが危険で失敗の可能性も高く、コストは非常に高くつき、利益が出るまで何年かかるかわかったものではないと強い難色を示した。反対の声の中心はロバート・マクナマラであった。
しかし、取締役会は全会一致でクルーソー-リースの計画を支持、承認した。リンカーン-マーキュリーは分離され、従来のスペシャル・ディビジョンをコンチネンタル部門と改称、まだ名もないEカーにも専従部門を新設、ジャック・リースがマーキュリー部門の総支配人に就任するとともに、計画に難色を示していたはずの幹部ディック・クラフブがEカー部門の総支配人に就くという展開が決まった。
野心的なプロジェクトというものは、決して小さくはじまらない。計画にいかなる不満があろうとも、承認されればそれは全社を挙げての進行となり、社運を賭けるムードがおのずとできあがる。
期待を一身にあつめるEカーのデザインには、若いデザイナーのロイ・ブラウンJr.――マーキュリー・スタジオに在籍していた俊英が抜擢された。なにぶんにもEカーはボディーシェルほか多くをフォードの他車種と共通とすることが前提であったから、その装いには「とにかく新しい、まったく新しい姿」が強く求められた。ここは思い切って若い才能にまかせよう、というわけである。
寄せられた期待の大きさに応えるべく、若きロイ・ブラウンは「ひと目でそれとわかること」をすべてに優先する事項としてデザインに取り組んだ。フロントマスクはもちろん、リア・テールランプもサイドスカラップもすべて、とにかく斬新に。
かくして1955年8月15日、Eカーのイメージリーダーとなるマーキュリーをベースとしたコンバーチブルの実物大ファイバーグラス製モデルが取締役会において披露され、アーネスト・ブリーチ以下全員が「これまで誰も見たことがない」「ひと目でそれとわかる」デザインにスタンディング・オベーションを浴びせた。クルーソー-リースの計画承認からわずか3か月のことであった。

1957 年秋に鳴り物入りでデビューしたエドセルの、その鳴り物のひとつと言えるのが、このプロモーショナルモデルである。立体カタログの役割を果たしたプロモーショナル、いわゆるプロモは、1950年代を通してすでに一般的な存在となっていたはずだが、エドセルの場合、ディーラーで配られた「来店のお客様にエドセルの精密な模型をプレゼントいたします」というチラシが残されているほどで、それだけにその生産数も通常のプロモのそれよりは多かったことであろう。写真はその貴重なプロモの生き残りだ。
このEカーに「エドセル」といういまひとつリズムに欠ける名が与えられた経緯については本稿の主題ではないため割愛するが、コロンビア大学の応用社会学研究チームによって絞り込まれたEカーのターゲットは「上昇志向の強いファミリー層および若いエグゼクティブ層である」との結論がはじき出された。
上昇志向の強いファミリー層――ここに小さな、そう、壮大な計画の1インチを1ミリ程度に縮小してみせたような小さな変革の芽があった。
計画の壮大さはミニチュアモデルにも波及し——
最初から巨大なプロジェクトのおそらくもっとも小さな部分、ミニチュアモデルの大規模な導入によって、この長期的な計画の「未来」にあたる部分を担保しようという動きがフォードのマーケティング部門を動かすこととなった。前途有望なる若き顧客予備軍のまだやわらかい心に、取締役会を虜にしたニューモデルのイメージを深く植えつけようというプロモーション・プロジェクトである。
当時フォードのプロモーショナルモデルを担当していたamtに課せられた最大の重責は、その甚大な発注数だった。フォードが見積もる販売台数の最大値を下まわることなど許されるはずもない。プロモーショナルモデルはあくまで完成状態での納品が原則であり、前例のない数をこなすには組立工数の合理的かつ大幅な削減が急務だった。単にプロセスの簡略化ではだめである。フォードはまったく新しい車の革新的な装いを精密に再現することを要求している。
このうえない難事業のブレイクスルーを課せられたamtエンジニアのジョージ・トテフはひとり大いに悩み、ときには神にすがるような短い巡礼の旅さえ経て、この問題の解決策をEカーあらためエドセルの公開までに間に合わせた。多段展開する複雑なスライド金型によるボディーパーツの一体成型技術である。
この技術的飛躍を可能にしたものは、かつてないほど潤沢に用意された準備資金だった。クッキーやワッフルくらいしか抜けない単純なものでもたいへん高価な金型は、その複雑さによって前代未聞のコスト高騰を起こした。いかにエドセル・プロジェクトが大きいとはいえ、それだけで正当化し賄いきれる負担ではない。
amtはこの機をむしろチャンスと捉え、フォードにとどまらずデトロイトすべての新車プロモーションに応用して多段スライド金型1テーマあたりのコストを下げ、さらには金型で打ち出しただけの成型品をそのまま「キット」として市場流通させる方策を考え出した。
ジョージ・トテフ考案の一体成型ボディーパーツは、amtの生産ラインにおける歩留まりの劇的向上のための設計でもあったから、いかに不馴れな組立スタッフであっても短時間に、正確に組み上がる配慮につらぬかれていた。車体下部の見えざる位置にくる4本のビスによって、ボディーとシャシーはもちろんフロントマスク、ウィンドウにいたるまでぴたりと位置が決まるスクリューボトム方式――この合理的構造は、新しい組立式ホビーの魅力を訴求するにも最適のアイデアであると思われた。
3年で終わった実車が産み落としたものは
1958年のデトロイトは、新車のお披露目がデビュタント・ボール――「プロム」そのものであることを如実に示すことになった。
主役はエドセルだった。プロムの夜、女王となることが約束されていたはずの「娘」は、エレガントだ、独創的であると誉めそやされてデトロイト・ボールルームに笑顔で踊り出た。しかし彼女を待っていたのは、およそ考えうる限り最悪の、下品な面罵であった。
この年、アメリカを襲ったのは戦後最大級の不況だった。約8か月という比較的短期間で回復はしたものの、消費は鈍り、アメリカの基幹産業である自動車はむしろ冷えた現実を糊塗するかのようにきらびやかさを競った。ビュイックをはじめとしたGM各車のクローム面積は過去最大となったことが示すとおり、市場の温度と車の装いのちぐはぐさはかつてないほどに際立った。
エドセルだけではなく、誰もが女王の装いであらわれ、全員が不評を買った。1958年のプロムは前代未聞、クイーンにふさわしい者が誰ひとり名指しされない事態となった。シャンデリアの下、いちばんに名指しされるはずだった「彼女」は、最後まで呼ばれなかった。
まったくひどい宵になってしまった。シンデレラのようにどこか決定論的に輝くはずであったエドセルはことさらにみじめであった。
この絶望のプロムに先立つ1957年10月13日(日曜)、エドセル・プロモーションの一環としてお茶の間を賑わせたCBSの『ジ・エドセル・ショー』生放送、豪華ゲストのひとりとして招かれたローズマリー・クルーニーは、この場で予言的に「計画を変えなきゃならないみたい」(I Guess I’ll Have to Change My Plan)を、物悲しくしっとりと歌い上げていた。
計画を変えなきゃならないみたい/他の誰かがいると気づいていればよかった/なぜあの青いパジャマを買ったんだろう/こんな大騒ぎになる前に
エドセルがアメリカンカープラモの母となったことは確かである。1/1実車と同様、もらい手のつかないままディーラーに積み上がったターコイズのエドセル・プロモーショナルモデルは、青いパジャマになってしまった。
それでもなお、これまで手のかかるわりにちゃちなクラフト玩具に過ぎなかったプラモデルを一気に精密化させ、10歳のこどもであっても完成させられる確実で簡便な構造を生み出し、他ブランド自慢の娘たちをも呼び集め、同じフォーマットをまとわせることに成功して、アメリカンカープラモを持続可能な文化的制度にまでいきなり押し上げたこと――これはエドセルを抜きには成立しなかったことであった。
失敗を引き受け、他者の成功を身ごもり、エドセルだけがひとり静かに姿を消した。「おめでとう、めぐまれた方」――この祝福を、御使がエドセルに伝えることはなかった。amtは、エドセル・ブランドが存続した3年間を通しで伴走したが、ブランドのラストデイトである1960年、アメリカンカープラモに新しく吹き込まれた命というべきエンジンパーツがエドセルに与えられることは最後までなかった。

本文にあるような経緯を経て、1958年型各車のプロモを元にamtはキット形式での販売も行うことを決めた訳である。写真は当時のエドセルのキットでもコンバーチブルの方で、品番は8EK。この連載でも以前にお伝えしているように箱はシリーズ共通で、小口などの印字で中身を識別するようになっていた。箱の絵はグリーンの車体はともかく、天面の白/青の車体のものはフォード風のものが描かれている。本連載第6回で述べたようにエドセルは本来SMPブランドからの発売だったが、そのあたりは極初期のみの区分だったのか、ご覧のようにこの個体のバッジはamtだ。
幸いなるかな、遅れて1999年に登場した精密な新金型の’
誰も見たことのなかったその姿ゆえに世界から拒まれたエドセルが
思えばこれは、奇妙なおとぎ話である。
最終回を経てシーズン2へと突入したアメリカンカープラモ・
【画像70枚】エドセルに関するすべてが分かる!実車と模型の写真を全部見る
※今回、amt 1/25の1958年型アニュアルキット「エドセル・ペーサー・ハードトップ」、「エドセル・ペーサー・コンバーチブル」、「シボレー・インパラ・コンバーチブル」、「ポンティアック・ボンネビル・コンバーチブル」、「インペリアル・クラウン・コンバーチブル」の画像は、コレクターの長沢成幸さんのご協力をいただき撮影させていただきました。ありがとうございました。
※また、amt 1/25の1958年型プロモーショナルモデル「エドセル・ペーサー・ハードトップ」は、アメリカ車模型専門店FLEETWOOD(Tel.0774-32-1953)のご協力をいただき撮影しました。ありがとうございました。