Roundup:17 プレーン・ジェーンの慌ただしい日々
ある幸福な車の話をしたい。
ほかでもない長年連れ添った愛好家の口から、しばしば「プレーン・ジェーン」(平凡な女性)と呼ばれてしまう車の、いささか華やぎを欠いた話になるかもしれない。
【画像71枚】初代スカウトはないがスカウトIIそしてライバルたちのキットを見る
メーカー自身も予期しなかったヒット作
インターナショナル・ハーベスターは1961年、もともと厚みのあるトラックの自社ラインナップに、小さくて簡素なトラックを仲間入りさせた。スカウト(scout)というこの車の名を、ただちに「斥候」「偵察兵」と訳してみせるのはやめておきたい。身軽に出かけて行って、なにかを持ち帰ることが期待される者、くらいがいいように思われる。
実際にインターナショナル・ハーベスターも、デビューしたてのスカウトについて「アメリカの新しいランナバウト」という宣伝文句を使っていた。
ランナバウトと言われても、日本語話者にはぴんとこないかもしれない。自動車史、さらに遡って馬車の型式にもいくらか詳しい読者であれば、屋根もなくドアもなく、せいぜい2人乗りで、なんとも気安いオールズモビル・カーブドダッシュを思い浮かべるかもしれないし、あるいはもっとわかりやすく、ジープを想像するかもしれない。たいへん的を射た想像である。
「あちこち走り回る」(run about here and there)こと、そうした使いみちにちょうどよい車こそ、ランナバウトであるといっていい。
インターナショナルが「新しい」とひとこと断るからには、おなじみの古いランナバウトがある。ジープである。1945年以来、世界初の量産された民生用四輪駆動車として、CJ(シビリアン・ジープ)は大成功を収めたランナバウトの典型だった。インターナショナルによる「アメリカの新しいランナバウト」の名乗りは、その更新をじゅうぶん企図したものだったといえるだろう。

1964年の雑誌広告である。上からヴァイナル・キャブトップ、トラベルトップ、スチール・キャブトップ、スカウト・ハードトップ、それらすべてを外しウィンドシールドを倒したオープントップ。当初インターナショナルが一番人気をあてこんだキャブトップに、遠く南北戦争を思わせるメイソン–ディクソン・ラインを持ち出して「以北の冬本番におすすめ」と書いている。その根拠はともかくとして、これらすべてがスカウト——すべてがおすすめ、選ぶのはあなた。
新しいのだから、「要するにCJと同じです」ではだめである。インターナショナルによる1964年4月付けの販売技術資料第182号によれば、『新しいインターナショナル・スカウト対ウィリス・ジープ』と題された約40ページの大半が、キャブ・屋根・ドアの比較に割かれていた。それら鋼製の「囲い」が、ジープの幌に対していかに有効か——風雨に強く、構成は簡潔・堅牢、しかもトップはボルトによって着脱ができた。
おまけに、トラック然とした標準的なキャブトップ以外に、荷台までもすっぽり覆う「トラベルトップ」が別途用意されていた。先行するCJにもオプションの着脱式ハードトップは存在していたが、戦時中からすっかり幌付きランナバウトのイメージが浸透していたジープ/CJに「できないことはない」使い方を、ひとつのまとまった新商品の標準的な姿として提示できたところに、スカウトの利があった。

スカウトは広告などで、ときに一切の屋根を取り払って「ロードスター」を名乗ることがあった。一方ジープには厚かましく「ジープスター」と名乗って違和感のない一日の長があった。スカウト、さらにフォード・ブロンコが傾向の似た顧客の注目を争うなか、1967年に遅れてあらわれたジープスターは、その工場と同じオハイオ州トレドにクラフトマスター名義の拠点を持つMPCから、アニュアルキットに準じたかたちでキット化されるに到った。
未来のオーナーにさまざまな使い方を想像させるこうした配慮がある一方、スカウトには少々気の利かないところがあったのも事実である。四輪駆動は標準仕様ではなかった。エンジンは可もなく不可もなく4気筒である。ヒーターはオプションであり、ラジオとフロアマットはディーラー装着用品、大容量バッテリーや11ガロンタンク追加は、まあご要望とあらば。ドアのアームレストやリアバンパーがオプションというところに、「それくらい付けといてくれればいいのに」がなくもない。
それでも、そのようなありのままの姿でスカウトは1961年の市場にあらわれた。インターナショナル・ハーベスターは6,000台から10,000台程度の販売予想を立て、既存の小型トラックに比較的小規模な新味を加えるくらいの構えでいたようだ。発表は1960年11月、生産開始は12月、一般販売は1961年1月18日のことだった。
生産をまかなうインターナショナル・ハーベスターのフォートウェイン工場では、1961年1月23日、スカウトを生産するための第2シフトを導入しなければとても受注を捌き切れない状況に陥った。1日50台生産すればよいとする見込みは、一般販売から90日で「1日164台」へと修正された。1961年5月には生産台数があっさり10,000台を突破——記念すべき10,000台目のスカウトは、四輪駆動のトラベルトップ装着車であった。
「えっ、そんなに?」と漏らしたのはいまこの記事をお読みの読者だけではない。当のインターナショナル・ハーベスターは、当初これがいちばん人気になるだろうと踏んでいたキャブトップ+後輪駆動を大きく裏切る市場の選択に対応すべく大わらわとなった。
とにかくトラベルトップ+四輪駆動が売れる。工場はトラベルトップをひたすら増産しなくてはならなくなり、販売店は在庫のキャブトップを外してトラベルトップに付け直し、そのためのキットおよび四輪駆動車の到着をまだかまだかと待ちわびた。注文残の解消には約半年の時間を要したといわれている。

さんざん邪険にされた隔壁を切り欠き、フロントにバケットシート、リアにオプションの少々手狭なベンチシートを据えたウォークスルー(Walk-Thru)仕様の広告である。「4人乗りの広々とした室内空間はスカウトが提供する驚きのうち最新のもの」という表現がある。顧客に教えられたことを、顧客に驚きとして返しているわけだ。驚いたのはわれわれインターナショナルでした、とはもちろん書かれていない。
うれしい悲鳴などといっている場合ではなかった。初年度に28,031台の生産を記録したスカウトはその後、顧客から改善をいくつも求められることになった。たいへん多かったのは「後席がない」という不満である。初年のスカウトは顧客が長いトラベルトップを選択したところで、ステーションワゴンに都合よく化けてくれるわけではなかった。キャブとカーゴルームのあいだに隔壁がある。気軽にちょっとそのへんまで出かけていける車の内部では、ちょっと後ろの荷物スペースまでの移動ができない。後席の設置もままならない。
1962年7月、インターナショナル・ハーベスターはこの隔壁を撤去し、座席をバケットシート化したウォークスルー仕様をひとまず打ち出し、オプションの後席を用意した。同時に、既存のモデルをしかるべく改造するキットの供給も開始した。
1963年を迎え、スカウトはついに設計をあらためられ、問題の隔壁は晴れて着脱式となった。後席は相変わらず、いや前席も、車内の移動を容易にしてくれるバケットシートはオプションのままだった。デビューのときから少しばかり気の利かなかったスカウトは、顧客の要望にこつこつまじめに応答しつつも、やっぱりどことなく気の利かないプレーン・ジェーンのままであった。
「スターダムを駆け上がる」という表現がしっくりこないままで、インターナショナル・スカウトは1964年7月13日、生産台数10万台を突破した。この日のフォートウェイン周辺は雨もなく、最高気温は21.3℃、7月にしては涼しく過ごしやすい一日だった。
平凡な女性、レッドカーペットへ
インターナショナル・ハーベスターはこの記念すべきスカウトの達成を、非常にささやかなかたちで祝うことにした。同年夏のうちに発表された特別仕様の白いスカウトは、インテリアが赤で統一されていた。シートのアップホルスタリーはもちろん、ふかふかと長い毛足のカーペットも赤。後年のレストア記録によれば、外からも中からも見えないシフトレバー(トランスミッションと直接連動するパーツ)までも赤く塗装されていたとする証言まであった。
レッドカーペット・スペシャルないしレッドカーペット・シリーズと呼ばれるこの特別仕様車は、後年の研究によると3,450台が生産されたという。
エンジンがパワーアップするわけでも、機能があれこれ追加されるわけでもないこの仕様を、インターナショナル・ハーベスターは社内で「ドール・アップ」(Doll-up=おめかし)と呼んでいた。
現在すっかりメインストリームとなったSUVの元祖、レッドカーペットは高級化へと舵を切ったモデル——スカウトについて、そんな言説がいま滔々と語られることがある。しかしこうして見てくると、そのはじまりは気軽に乗って走り出せるランナバウト、靴にたとえてみれば、かかとのストラップを留めても留めなくてもよい「つっかけ」のようなもので、レッドカーペットは大女優への変身でもなんでもなく、ほんのささやかなお祝いに過ぎない。
大いに売れたという事実にさえ、ほかでもないスカウト自身がなんとか追いつこうと必死になっているかのようにも見える。顧客からは不満や要望が絶えることなく寄せられ、スカウトはステップ・バイ・ステップでそれに応える——ショールームに立つのは、いつもどこかしらが暫定的なスカウトだった、ともいえそうだ。顧客がうるさいのは、それだけスカウトが顧客たちの生活に深く関与し、関係が持続しているからにほかならないはずである。

ここで1976年発売の’76スカウトIIキットに登場してもらい、軽く挨拶してもらおう。ご覧のとおりグリルが’77とは異なる。たったこれだけのことが、このキットを再販不能にしているのだ。ソーラーイエローのボディーが「皆が通り過ぎてしまうアメリカ」のどこかをすすんでいる。この蓋をあけてしまうと、大方の予想に反して中から熟した柿のような色のボディーパーツがあらわれるのだが——話が長くなってはいけない。このへんで。
その間も水面下ですすんでいたスカウトの全面更新計画は、1964年11月11日にインターナショナル社内で承認され、1967年から1968年にかけての市場投入を目論んでいたとされるが、「顧客の要望をすべて盛り込んだ」スカウトIIが市場に登場したのは、1971年4月もだいぶ過ぎてからのことである。
未だ来ぬキット化の日に備えて
アーテルの手によってはじめてプラモデルになったのはこのスカウトII——それも、1976年のうちに1976年式スカウトIIを、それまでデトロイト式のアニュアルキットを一度も手がけたことのないアーテルが手がけるというかたちで実現した。アニュアルキット制度が事実上崩壊する、まさに直前に到ってのことだ。
この頃のスカウトIIはきわめて多彩に細分化されており、インターナショナル・ハーベスター自身も砂漠でのラリーを戦う有力な独立チームを支援するなど、後世のSUVイメージが違和感なくしっくりくる車とメーカーになっていた。1976年から1978年はその活動が目立って活発におこなわれた時期だったのだ。模型ビルダーのスカウトに対するイメージは、まさにこの’77スカウトのキットからはじまっているがゆえに、「少し気の利かないプレーン・ジェーン」からは遠く隔たっている。
こうしたスカウトIIのイメージに近い「SUVらしいSUV」が、近年続々とキット化されている。レベルからは初期のフォード・ブロンコが、ラウンド2からは21世紀に甦ったブロンコが組み立てやすいキットとして登場し、ファンの注目をあつめている。そんななか、ラウンド2がamtブランドで再販にこぎつけたスカウトIIは、凝っているがいささか古いキットと評されたりもした。1979年にamtから初登場した2代目のフォード・ブロンコも、再販にあたってはスカウトIIと似た扱いを受けているように見える。

バハ・カリフォルニアの土を捲き上げてスカウト・テラが走っている。1970年代のワンシーンではない。2025年である。舞台はノーラ・メキシカン1000、と言ったら何人かは「えっバハ1000じゃなく?」と思うかもしれない。バハ1000の前身であるノーラ・メキシカン1000は2010年、かつて1967年にはじまったレースとはまったく違うものとして復活を遂げた。そこに’76スカウト・テラが、スカウトを諦められない男たちの手によって挑んでいる。
本稿は、いまだプラモデルになっていないインターナショナル・スカウトことプレーン・ジェーンのなんともあわただしい日々と、ちょっぴりめかして赤い絨毯のうえに立たされたひとときについて書いた。彼女が今後、プラモデルになってもならなくても、ときおり思い出していただければうれしく思う。
そうだ——砂漠を力走するスカウトIIのイメージに、赤い絨毯を敷きつめたっていいのである。
※今回、amt1/25「インターナショナル・スカウトII」(アーテル金型・ラウンド2版)、AMTアーテル1/25「マウンテンゴート ジープ・コマンド」、レベル1/25「フォード・ブロンコ」、「フォード・バハ・ブロンコ」の画像は、アメリカ車模型専門店FLEETWOOD(Tel.0774-32-1953)のご協力をいただき撮影しました。ありがとうございました。
【画像71枚】初代スカウトはないがスカウトIIそしてライバルたちのキットを見る
■「アメリカンカープラモ・クロニクル」連載記事一覧はこちら